「タンジドル(10)」(2023年10月13日)

昔からポンドッランゴンで行われてきたハジャッブミでは、祭りを賑わすためにタンジド
ルやガンバンクロモンの楽隊が演奏しながらオンデルオンデルと一緒に往来を練り歩いた。
今でもガンバンクロモンやオンデルオンデルはその姿を見せてくれるものの、タンジドル
楽隊の姿がかき消えてしまった。ポンドッランゴンのハジャッブミに関する2008年の
コンパス紙記事には、タンジドルのいまだ健在な姿が登場している。

10台くらいのピックアップトラックが行列を組んでポンドッランゴン町の狭い道路をゆ
っくりと走る。その中の1台は荷台にタンジドルの楽隊が乗って賑やかに音楽を奏でてお
り、別の1台にはガンバンクロモンの楽団が乗って祭りの賑わいを盛り上げている。祭り
の会場は地元民が墓地に使っている共有地だ。そこには町の創設者と信じられているウユ
ッ翁とクドゥン翁の墓があり、祭りは祖先の霊を巻き込んで行われている。

ポンドッランゴン町でこの祭りがいつから始まったのか、知っている者はひとりもいない。
あるとき誰かが発起人になって村祭りが行われたのだろう。それが伝統となり、歴代の子
孫が伝統を守り続けている。地元民の中にこの祭りをpesta Gantjengと呼ぶ者もいる。

キガンチェンは村の創設者たちの墓守だった。この墓守の墓もそこにあり、ひとびとはガ
ンチェンの聖墓と呼んでいる。キガンチェンは1967年に113歳で没した。だからガ
ンチェン祭りという言葉はまだ百年経っていないことになる。しかしポンドッランゴンの
ハジャッブミの発端がそんな最近だったとは思えない。

ともあれ、昨今のポンドッランゴンのハジャッブミはお楽しみ祭りの印象が明らかに濃い。
三日間続けられるハジャッブミでは、ブタウィのさまざまな娯楽演芸を愉しむことができ
る。Topeng BetawiやWayang Golekなどが夜な夜な演じられるのである。残念ながらタンジ
ドルはもういない。


南ジャカルタ市ジャガカルサにTiga Saudaraという名前のタンジドル楽隊がある。200
6年3月のコンパス紙にこの楽隊を取材した記事が載った。地元民のサイッ・ネレンさん
が楽隊のオーナーで、バンドリーダーと世話人を一手に引き受けている。かれは先祖代々
の生粋ブタウィ人だ。先祖はその一帯の広い土地を持って果樹園にし、果実の販売で暮ら
してきた。

サイッは1948年にカンプンカンダンで生まれた。かれの生家が建っていたおよそ7千
平米のその土地にはさまざまな果樹が植えられていた。1970年代にラグナン動物園が
建設されるため、カンプンカンダンの土地を政府が買い上げた。かれの生家は今動物園の
一画になっていて、そこに住人はひとりもおらず、住んでいるのは動物だ。「よく知らな
いが、多分虎か鹿が住んでるよ。」サイッはそう冗談めかす。

かれは1973年にそこから近いクチャピ通りの4,120平米の土地に家を建てて住む
ようになった。果樹園の中の家で、典型的なブタウィ様式の家屋だ。昔はこんな家でもお
屋敷と呼ばれたが、今の時代ならあばら家だよ、とサイッは言う。

ブタウィ様式の家屋では、家の裏手に客人専用の浴室が作られている。ブタウィ人は住ん
でいる家族や別の家に住んでいる親戚が来たときに使うスペースと客人のためのスペース
を厳格に区別した。客が来ると家の表テラスで応接するだけで、客を家の中に入れようと
しない。家屋の表テラスは屋根と柱と垣だけで壁のない広いスペースになっている。家に
よって異なるが、壁で囲まれた家族の居住空間と来客テラスをそれほど違わない広さにし
ている家もある。もしも来客を家の中に入れたりしたら、子供の結婚話じゃないかとすぐ
隣近所に噂が立つそうだ。

表テラスは応接間なのだから、家の者がそこで寝転がったりするのは世間体が良くない。
だから家族専用の寝転がりテラスを家の横に設ける人も多い。コンパス紙取材班はサイッ
の家の横のテラスに招じ入れられて取材インタビューが行われた。[ 続く ]