「タンジドル(11)」(2023年10月16日)

サイッの一家がタンジドルに関わるようになったのは娘婿のためだった。サイッの義理の
兄になったバンジルは当時盛んだったタンジドルのプレーヤーで、またレノン役者でもあ
った。バンジルは自分のタンジドル楽隊を持ちたかったようだ。広い果樹園で生計を立て
ていた父親のネレンが30万ルピアの大金を払ってタンジドル楽隊用の楽器一式を購入し
た。1960年代はじめごろのことだ。今なら2千万ルピアくらいに相当するだろうとサ
イッは昔を振り返る。

バンジルはサイッや他の希望者を集めて楽隊を組むことにし、自分と仲間たちで素人楽隊
に音楽と楽器演奏を教えた。かれらは金管楽器をすべてトロンペッと呼んでいたようだ。
trompet piston, trompet trombon, trompet bas, trompet tenorそしてクラリネットは
suling。

この感性の音楽に楽譜は使われないのが普通だ。耳をつんざく明るい華やかな音のアンサ
ンブル。オランダ人が東インドに持って来たこの音楽は今やブタウィ人の感覚に彩られて
ローカル音楽と化した。レパートリーの多くは奏者たちのなじんだブタウィ音楽、Poho 
Ke Balik, Ketapang Sono, Jali-jali, Stambul, Gaplek, Kembang Kacang, Parsiなど。
だが行進するときにはマーチも忘れない。タイトルさえもがMars Jalan。


こうしてタンジドル楽隊が活動を開始したが、あまり長続きしなかった。リーダーのバン
ジルがタングラン監獄に入れられ、病気になって獄舎で死亡したのである。

バンジルは共産党に入ったのだ。インドネシア共産党は農村部の土地なし農民に土地を分
配する方針を宣伝して農村部で勢力を強めていた。そしてG30S事件が発生し、クーデ
ターは鎮圧され、共産党は非合法化されて党員はすべて犯罪者として監獄に入れられた。
中にはストリートジャスティス(いやヴィレッジジャスティスと呼ぶべきか?)で葬られ
た者も少なくない。それが全国的に行われて総勢数万人と言われている大量虐殺に発展し
たのである。

このレッドパージをインドネシア在住華人に向けられたものと誤解した論調も出されてい
るようだが、その傾向がまったくなかったとは言えないものの、インドネシア共産党員=
華人系インドネシア人という構図にはなっていなかったのであり、共産主義宣伝班はロー
カル芸能を使って下層労働者や農民をシンパにすることに成功していたから、党の宣伝班
に使われたプリブミ伝統芸能関係者も大勢がパージの対象にされた。共産党とは無関係な
のに、村で嫌われていた地元民や村の有力者に盾突く者もたくさん共産党員のラベルを貼
られて姿を消した話がジャワ島にあふれている。


1965年の話だから、バンジルがリーダーをしていた頃だろう。ポンドッランゴンで結
婚パーティの出演仕事が入ったので、当日午前10時にサイッは重い楽器を手に提げてジ
ャガカルサの家を出た。徒歩で会場まで行こうというのである。地図上の直線距離は10
キロそこそこだが、ジャカルタの街道は昔すべてが南北に通っていて、東西を遠距離で結
ぶ道路は限られていた。ジャカルタ南部のその地域に昔あったのは近くの村と村を結ぶ道
がほとんどだったから案の定、若きサイッは道に迷ってしまい、会場にたどり着いたのは
真夜中だったそうだ。楽隊のメンバーがひとりくらい欠けていても、タンジドル楽隊の演
奏はなんとかなったようだ。

サイッは共産党と関りを持たなかったが、リーダーの義兄がいなくなったために楽隊は活
動できなくなった。父親のネレンはサイッに強く言い聞かせた。タンジドルの楽器は絶対
にひとつも売ってはならない。楽器ができるひとに貸すのはかまわないし、おまえが使う
のもかまわない。しかし絶対に他人に売るな。ネレンの家に管打楽器があることは地元の
たくさんのひとが知っており、使われなくなった楽器を買いたいというひとが遠方からも
たくさんやってきたが、サイッは父の遺言を守った。

ある日、タンジドル愛好者のハジクマッが楽隊を復活させることをサイッに勧めた。この
ハジがあちこちを回ってタンジドル演奏の注文を取ってきてくれた。楽隊は再出発した。
[ 続く ]