「cukupの語感」(2023年10月19日)

ライター: イ_ア語文法学者、バンドン在住、リー・チャルリー
ソース: 2011年3月11日付けコンパス紙 "Cukup dan Sangat" 

cukupという語をポジティブでない語感、あるいは良くない語感を持つ言葉のクオリティ
を説明するために使うのは、本当は正しくない。

cukup bau, cukup jelek, cukup jahatのような表現は、冗談として使うだけにとどめる
べきだ。cukup menjengkelkan, cukup menyedihkan, cukup menyusahkanのような組合せ
もあまり良いものではないのだが、放置されてインドネシア語使用者の間で当たり前にな
ってしまった。cukup menyedihkanというのは憐憫の対象としてぎりぎりの所という意味
なのだから、そんな言い方をされた被害者は気を悪くするべきだろう。

cukupの語はたとえば、cukup sehat, cukup kuat, cukup kaya, cukup menyenangkanなど
のように肯定的で良い語感の形容詞を修飾するのに使われるのが普通の用法だ。cukupの
意味は平均よりちょっと上ということだが、説明される形容詞の測定基準が往々にしては
っきりしないことを度外視しての話になる。たとえばkayaという形容詞が使われたとき、
その具体的なレベルの目盛りはどこを指しているのか。cukup kayaの内容についてピント
の合った理解をするために、ひとはkayaのレベルを想定しなければならなくなる。miskin
には一日2米ドルまたはそれ以下の収入という定義があるが、kayaの基準はどうなのか。
kayaという概念に該当するためにはいくらの収入を得なければならないのだろうか?

cukupというのは常に良い意味を示している。過剰でなく、また不足でもない。たとえ測
定基準がはっきりしていなくとも、cukupの語は満たされている状態を必ず示すのである。
われわれはCukup kenyang.と表現するのが適切であり、Cukup lapar.はふざけて言う場合
でなければ使うべきでない。Cukup bahagia.は何も問題がないものの、Cukup sengsaraは
決して使うべきでない。

cukupは、tinggi, jauh, panasなどのような良い悪い、あるいはポジティブ・ネガティブ
というニュアンスを持たないニュートラルな形容詞にも使うことができる。長期間にわた
ってわれわれが続けてきた習慣は、それが間違っていたことが判明したときでさえも、そ
の習慣を改めることがむつかしい。言葉についても同様だ。


sangatはクオリティの程度を示すのに使われる。平常のクオリティより程度が激しいのだ。
この場合にも測定基準のはっきりしないケースが出現する。難しい試験問題を出されたと
きに学生や生徒たちは「sangat sulit」という感想をしばしばもらす。その表現は単なる
sulitよりもっと難しいことを意味している。そう言われたら、聞く者はどれほどsulitな
のだろうかという疑問を抱く。「測定基準がはっきりしない」と上に述べているのがそれ
なのだ。結局sangatという言葉はいつも、普通を超えた程度を意味しているという理解で
終わる。

cukupと違ってsangatは、語感がポジティブ・ニュートラル・ネガティブのどれであろう
と、すべての形容詞に使うことができる。sangat miskinという表現は貧困ラインからは
るかに下の経済レベルで暮らしていることを意味している。miskinの定義を一日2米ドル
またはそれ以下の収入だとするなら、sangat miskinと表現されるひとびとはほんの数セ
ントの収入で暮らしていると解釈できる。

自然災害の犠牲者についての報道でcukup menderitaと言うよりも、sangat menderitaの
ほうが感情移入が行き届くはずだ。sangat menderitaの場合は飲食品の不足、財産の消失、
疫病の蔓延、清潔な生活用水の欠乏などを意味することになる。測定基準は各自の感覚と
お好み次第になって構わないだろう。たとえば、ルナ・マヤとマヤ・ハサンのおふたりを
前にしてあなたがcukup cantikとsangat cantikの形容を奉呈するのがどちらになるか、
というように・・・