「タンジドル(14)」(2023年10月19日)

音合わせをしてから合奏が始まる。まず行進曲Mares Jalan。続いて歌謡曲Kicir-kicir、
さらにHujan Gerimis。けたたましい音楽が隣近所の住民を呼び集め、20人くらいのに
わか聴衆が集まって音楽鑑賞をする。サイッは隣人のひとりンポヌルに唄うように勧め
てムラユ曲のSeringgit Dua Kupangを演奏し始めた。
Jalan-jalan ke Kota Paris
lihat gedung berbaris-baris
Paling senang sama Bang Kumis
orangnya ganteng sangat romantis
・・・

練習していると客がやってきた。議員立候補者と選挙運動チームだった。この候補者はブ
タウィの伝統芸能プロモートを公約にしているので、ぜひ皆さんの一票をと呼びかける。
おかげで練習はお流れになった。

候補者一行が帰ったあと、サイッは記者にもらした。「世の中へのプロモートもいいんだ
けど、タンジドルは演奏のオーダーをくれるのが一番いいんだよ。でないと、タンジドル
は生き残れない。」

1990年代初めごろまで、タンジドルへの注文はあふれんばかりにやってきた。何かの
催事を行うとき、吹奏楽隊がいないのは塩の効いていない料理のように思われていた。結
婚・割礼・出産などの祝い事にタンジドルが出ないとしまりがない、とみんな思っていた。
そのころティガサウダラは、仕事のない日がひと月のうちに2日くらいしかなかった。今
は仕事が一年のうちで2回あるかないかだそうだ。


チジャントゥンのタンジドル楽隊プトラマヤンサリのリーダーであるソフィヤンさん40
歳もサイッと同じような話をする。1980年代は毎日あちこちの村で仕事があった。と
ころがダンドゥッの人気が高まって、しかも謝礼が廉く、すごいビートで乗りまくるから、
90年代に入ってからタンジドルは祝い事の出演がどんどん減っていった。

ソフィヤンは生計のために大手スーパーマーケットの社員になっているが、タンジドルの
オーダーが毎月コンスタントに最低6件得られるなら、自分はマヤンサリの仕事に専念し
たいと語っている。それだけの仕事すら得られないから、かれはスーパーマーケットで働
いているのだ。

ソフィヤンは1941年に結成されたタンジドル楽隊マンドルニミンの5代目子孫に当た
る。楽隊を作った初代のニミンは息子のリシンに楽隊を引き継いだが、リシンの後継者は
婿のニャアッと息子のナウィンのふたりできた。ニャアッはその息子のマルタが継いだ。
マルタがソフィヤンの父親だ。ナウィンの後継ぎはバンピイェ。

オーナーで世話人でリーダーの一家の中の誰かが後を継がないと、タンジドル楽隊は消滅
してしまう、とかれは語る。かれも親族でない誰彼かまわず、タンジドルを教えている。
習いたい者が楽器演奏を教えてもらいたいだけなのか、それともタンジ音楽が好きで来て
いるのかはよくわからない。でも、他の音楽をやっている者はたいてい、タンジドルが好
きになるようだ、というのがソフィヤンのコメントだった。


タングランのタンジドル楽隊アルジャバルのリーダーであるジャイプ・プトラ・ジャバル
さん65歳も7年前から楽隊の若返りに努力している。かれはもう20人くらいの若者に
タンジドル演奏を教えた。教え方は1960年代にジャイプが祖父から教わった時そのま
まのやり方だ。まず祖父が演奏して手本を示す。それをジャイプがそっくり真似るのだ。
タンジドルミュージシャンは楽譜を使わない。[ 続く ]