「インドネシア文化理解(1)」(2023年10月23日)

言語教育畑を歩んでインドネシアの教育者たちを育てたサットノ教授はマラン教育大学の
学長を務めてから第一線を退いた。かれの著作「言葉の鬼とクロスカルチャー理解」と題
する2003年に出版された書物には、人間の文化ビヘイビアはこんなに異なっているの
だという豊富な例が記されている。

面白い内容がいろいろ書かれているので、今回それをご紹介することにしたい。もちろん
人間のビヘイビアは時代の推移に伴って変化する可能性を持っていることを追記しておこ
うと思う。人間のビヘイビアの中で文化によって違っているものがあるのは、ある時期に
ある根拠や理由によってある環境の中にそれが発現してその文化の中で伝統化したためだ
ろうから、ユニバーサルな人間性よりも風土や環境からの影響を強く受けたことが原因で
起こった現象のように思われる。

風土や環境が異なるがために別の文化ではそうならないで別の発現形態を執ったものを並
べて比較しているのがクロスカルチャー理解というものなのだろう。しかしそんな文化行
動の違いを育んだ風土や環境も時代の変化にともなって、いくら伝統化したとは言いなが
らも発端時の根拠や理由が持っていた社会生活における価値が変化すればその影響を蒙ら
ないないはずがないとわたしは思う。

おまけに世界的に優勢な文化に弱小の民が追随してファッション化させることも頻繁に起
こっているわけだから、XX人がそんなビヘイビアをすればこんな意味になるのだという
べた一面の解釈はリスクをはらんでいることが懸念される。大傾向が意味しているものと
個別のケースが常に一致するとは限らないのがこの世界の常識ではないだろうか。

サットノ教授が書物の中で述べた文は(∫)の記号を付けて引用した。(∬)記号は教授でな
くて本論筆者の個人的な意見なので、念の為。

(∫)手を使って何かを指し示す場合、指を伸ばして使うことがよく行われる。ジョクジャ
やソロでは親指が使われる。だが米国人にとって、指を伸ばして他人に向けるのはスラバ
ヤ人が頻繁に口にする罵詈を意味しているのだ。だから指を伸ばして指し示すのでなく、
指を全部開いた平手を使って、その指先で指し示すのがもっとも無難な所作だろう。

(∫)ジャワ文化では、客に座る場所を示す場合には、身体を前に傾け、右手を握って親指
を伸ばし、左手を右手に添えて親指の指先で指し示す

(∫)インドネシア人は他人や子供を招き寄せるために手を開いて全体を上下に動かす。と
ころが米国人は同じしぐさで「さよなら」を表明する。米国人が親指と人差し指で丸を作
ればオッケーの意味。しかしメキシコやブラジルでは卑猥な意味になる。

(∫)頭を振るしぐさは、たいていの文化でノーを意味している。ところがインド人はその
しぐさでイエスを表現する。ブルガリアとトルコでは頭を振る方向が違っていて、後ろに
向かって頭を振るのがノーを表明するしぐさだ。

(∫)椅子に座って脚を組む姿勢は、ジャワ文化では行儀の悪い姿とされている。女性の座
姿勢は必ず腿を合わせなければならない。しかしブギス=マカッサルでは、サロンを履い
ているかぎり行儀が悪いとは見なされない。
(∬)腿を合わせる座姿勢を床に座って行う場合、まったく同一ではないが日本の正座のよ
うな形になる。ジャワ女性も正座に似た座姿勢を執るのである。ガムランの伴奏で唄う女
性プシンデンの座姿勢を見るとそれが判る。もちろん、一般庶民の中には男のように胡坐
をかいて腿を広げる女性もいる。
[ 続く ]