「インドネシア文化理解(2)」(2023年10月24日)

(∫)挨拶としての接吻は、アラブとロシアでは男同士がパブリックスペースで唇を合わせ
る。米国では女同士が挨拶として唇を合わせる。米国の男女はお互いが気に入ればパブリ
ックスペースでどんどん唇を合わせる。
(∬)イスラムという共通項を持っていても、インドネシア文化とアラブ文化は違っている。
男同士の挨拶として、ハグして頬を合わせることまではしても唇を合わせようとするイ_
ア人男性はまずいないだろう。男に抱きつかれるのは死んでも嫌だという異文化の男性は、
相手が抱きつこうとしたら自分の両手を胸の前で合わせて合掌し、顔をうつむかせると抱
き付きアタックをビューティフルにかわせるのではあるまいか。抱き付きアタックから逃
れようとしてじたばたする姿は挨拶をぶち壊しているようでどうにも見苦しい。
合掌は生きている人間同士の挨拶にも使われるものだ。それを死者との挨拶だけにしてし
まった文化はもっと柔軟さを取り戻すべきではあるまいか。

(∫)対人接触の際の目の位置について、米国人は会話するときに相手を見つめる。目をそ
らすと、「馬鹿にしている」「真剣でない」「信用できない」といった印象が生じる。し
かしジャワ文化では、親や目上のひとに話すときは下を見るのが礼儀になっている。下位
者が上位者の目を見て話すと、挑戦的という印象が生じる。
(∬)獰猛なケダモノと目を合わせてはいけないということがよく言われている。目を合わ
せるとそのケダモノが襲いかかって来るのだそうだ。つまりは目を合わせた人間が自分に
挑戦しているという解釈をケダモノがするのだろう。えっ、じゃあジャワ文化はケダモノ
文化に似ている!?それとも西洋人は四六時中獰猛な挑戦的姿勢で人生を生きているとい
うことなのだろうか?

(∫)対人接触の際には米国人もインドネシア人も、いつもスマイルを顔に浮かべてフレン
ドリーな態度を示す。
ところが東ヨーロッパに行くと、ひとびとは家族や親しい人間に対してだけスマイル顔を
見せる。はじめて会った人間や、知人だけど別段親しいわけではない人間に対してニコニ
コ顔をして見せると、「下心がある」「相手に干渉したり、言いがかりをつけたいんだ」
「頭がおかしいんじゃないの」といった解釈がなされる。
(∬)わたしはかつて部下のジャワ人女子社員から、公共スペースでスマイルを顔に浮かべ
るのは社会交際におけるエチケットなのだという話を聞いた。かの女は親からそういうし
つけを受けたのだそうだ。そのためにそれは一種の条件反射のようなものとしてインドネ
シア人の社会生活における態度の中にしみついたものになっているのだろう。
会社の中では現地人社員がみんな微笑みながら快活に振舞っていて、自然と楽しい環境が
醸成されている。ところがいつもそうやって振舞っている女子社員のひとりを街中のバス
停で見かけたことがあった。そのバス停にいたのはかの女ただひとりであり、わたしは自
分で運転している車の中からそれを見たのだが、そのときのかの女のブスッとした表情を
目にして、会社で見る普段の姿との落差に驚いたことがある。
インドネシア人はスマイル民族だと語る声が多いようだが、見せかけの姿に踊らされてい
るということはないだろうか。

(∫)対人接触時に日本人が笑う場合は、失敗や自分の非をごまかそうとしているのである。
インドネシア人も同じようなことをする。日本人女性が笑うときは、手で口を覆い隠す。
昔のジャワ女性も同じことをした。
(∬)相手を笑わすための冗談に反応しているのでなくて、普通の会話の中で日本人が笑う
のは「笑ってごまかす日本人」を実演しているのだろう。昔の西洋人がJapanese smileと
言って忌み嫌った日本人のスマイルも真意真相を隠しごまかすための擬態だった。態度変
われど本質は変わらずということだろうか。

(∫)昔のジャワ女性は、大声で話してはならず、またゲラゲラと大声で笑うのもいけない
ことだと教えられた。ゲラゲラカラカラと笑うのは売笑婦のすることなのだ。中国人はレ
ストランで、美味しい料理を楽しんでいることを表明するために大声で会話することが期
待されている。しかし米国でそれをしてはいけない。
[ 続く ]