「ヌサンタラのコーヒー(3)」(2023年10月25日)

エチオピアに生まれた飲用コーヒーの習慣が15から16世紀にかけて、アラブ半島南部
から北上して半島内を席捲したあとペルシャ、エジプト、シリア、トルコなどへと伝わり、
それぞれが独自の個性を持つ独特な飲み物になって中東一帯のコーヒー文化を構成する立
役者になった。

1414年にメッカでコーヒーの木が栽培されている。1500年代初期にはエジプトで
コーヒーの飲用が盛んになった。更にレヴァント地方に北上してダマスカス〜アレッポそ
して1554年にコンスタンチノープルへと伝わって行く。

その流行に反して保守派イマムたちが、コーヒーの飲用が引き起こす依存性の面をとらえ
て、人間に礼拝などの五行を忘れさせるものであるため禁じなければならないと主張した。
まるで麻薬扱いだ。そのためにメッカで1511年にカフワはハラムであるというファト
ワが出された。しかし1524年にオットマン帝国スルタンのスレイマン1世がその禁止
を取り消すファトワを出した。その時期、アラブ半島はオットマン帝国の支配下にあった
から問答無用の措置になった。似たようなカフワ禁止令は1532年にカイロでも出され
ている。だがその結末がどうだったかは歴史が示している。

保守的な人間はどこにでもいて、新しいものごとに神経過敏になり、守旧に走るのが人間
の性なのだろう。新しいものごとが破滅をもたらすのが恐いのかもしれない。古いものご
とだっていつかは破滅をもたらすというのに。人間の精神の柔軟性が信じられない者たち
は、人間を脆い素焼きの器のように扱おうとする。保守的精神とは人間不信のことなので
はないだろうか?

カフワがハラムかそうでないかという論争は、デモクラシー的に言うなら、ハラム論が最
大多数の最大幸福理論によって現象的に否定されてしまったと言えるように思われる。有
為の活動に向けて人間の体調をととのえさせる薬用効果をアッラーが否定するはずがなか
ったのだ。


トルコ人は外来のコーヒー文化に新しいライフスタイルの要素を付け加えた。1555年
に世界で初めて、コンスタンティノープルにカフェが作られたのである。アレッポ人とダ
マスカス人がそれぞれコンスタンティノープルに店を開いた。トルコ人がしたことではな
かったわけだが、トルコ人が首を横に振ればそのカフェはきっと生まれていなかっただろ
う。それまで中東一帯でコーヒーの作り売りをしていたのは路上物売りだったのだ。

コーヒーの作り売りを建物の中で行い、そこをサロン化させたのがカフェの始まりだった
と言えそうだ。トルコ語でそれはkahvehaneと呼ばれた。トルコ語のkahveはコーヒー、そ
してhaneは家や場所という意味だ。カッヴェハネでコーヒーショップの意味になる。

市民がカッヴェを楽しみにそこへやってきて、そこで出会ったひとびとがさまざまな話を
し合い、意見を述べ合うようなサロンがオットマン帝国のおひざ元に誕生した。


オットマン帝国のその時代、トルコ人はコーヒーをたいへん大切な物として尊重したそう
だ。コーヒーを飲みたい妻に夫がコーヒーを十分買い与えてくれないということだけで、
妻が宗教裁判所に離婚申し立てをする十分な理由が立ったという話もある。イスラム社会
であっても、妻からの離婚請求訴訟は昔から行われていた。イスラムが完璧な性差別社会
であるというイメージを持たされたひとは、何者かの意図(糸?)に操られているのでは
ないだろうか?

「カップの中の地獄、死の強さ、愛の甘さ。カッヴェはそれでなければならない。」トル
コ人はコーヒーをそう定義付けたそうだ。その定義に賛同する現代のコーヒー愛好者はど
れほどいるだろうか。あの時代に標準だったトルココーヒーをトルコ人は今でも飲んでい
るのだろうか?[ 続く ]