「ヌサンタラのコーヒー(4)」(2023年10月26日)

ヨーロッパにコーヒーが持ち込まれたのは17世紀であり、中東を訪れたヨーロッパ人旅
行者が土産に持ち帰ったものだった。この激しく苦い飲み物を呪われた飲料だと非難する
ひとびとが現れたが、ヨーロッパに巻き起こったその現象がイスラモフォビアの影響から
果たして無縁だったのかどうか。

アラブ世界で大好評のこの飲料が神の祝福したものだったか、それとも悪魔が人間を惑わ
して破戒を行わせるために差し向けられたものだったかは、アラブ人がすでに結論を出し
ている。だからアラブで流行し、それがヨーロッパにやってきたのだ。

アッラーとDeus(God)が同一の存在であると認識しているのであれば、アラブ人はアッラ
ーから認定証を得たのだという事実が否定派ヨーロッパ人に何の根拠も与えないのはどう
してなのか?

結局のところ、人類はみな兄弟であり、だからこそ兄弟喧嘩をして殺し合うことは永遠に
絶える日が来ない、という真実がカフワ否定派の踏まえた土台だったようにわたしには思
われるのである。ヒューマニストが唱える「人類はみな兄弟」という真理には後半部分の
真実が付いて回ることをわれわれは肝に銘じておくべきではあるまいか。


別のストーリーによれば、ヨーロッパにコーヒーを紹介したのはアルメニア人だったそう
だ。アルメニアというのはトルコの東でイランの北という位置にあった土地にできた古代
国家のひとつで、世界で最初にキリスト教を国家の宗教にした。しかしさまざまな強国が
アルメニアを征服した長い歴史の中で故国を去ることを選択するアルメニア人が続出し、
かれらは異国に移住して事業の成功者になる者が多かった。

ヨーロッパに移住したアルメニア人の中に、オランダに住み着く者も少なくなかった。か
れらの中でオランダのスパイスビジネスに関わった者が17世紀半ばごろ既にマルクに移
住している。

その後オランダ東インド時代が始まると、バタヴィアやスラバヤにやってきて事業を行う
アルメニア人が増加し、製糖工場を設けて砂糖ビジネスを行なったり、ホテル業を行う者
もあった。19世紀にはコミュニティが形成され、かれらは教会を建て、学校を作り、コ
ミュニティの活動を熱心に行った。バタヴィアのアルメニア教会は1831年に現在のタ
ムリン通り北詰西側のインドネシア銀行敷地の中にチャペルとして建設され、1857年
に完璧な教会として完成した。しかしインドネシア銀行が現在の広大な地所に建設された
とき、アルメニア教会は取り壊されている。

インドネシア独立革命の闘争期に、アルメニア人はオランダ人と見なされて襲撃のターゲ
ットにされたため、大半がシンガポールに逃げ出し、最終的に米国に移住したそうだ。そ
のアルメニア人がヨーロッパのコーヒー普及に大きい役割を果たした話が語られている。
[ 続く ]