「ヌサンタラのコーヒー(5)」(2023年10月27日)

ヨーロッパ社会にコーヒーが紹介されたとき、ヨーロッパ人のマジョリティがこの新しい
飲み物に飛びついたのかどうか、それは良く判らない。ヨーロッパ初のカフェはイタリア
のトスカナ地方にあるリヴォルノの町に1632年にオープンした。それからちょっと遅
れてヴェネツィアに1647年と続く。

いや、セルビアがヨーロッパであることを忘れていた。セルビアでトルココーヒーを飲ま
せる店がオープンしたのは1522年だったという話がある。しかしそれだとトルコより
早いことになって、世界最初のカフェがコンスタンティノープルにできたという説が覆さ
れてしまうではないか。

ともあれ時の流れの中で、フランスで、イギリスで、オーストリアで、ドイツやオランダ
で、カフェが街中にどんどん出現し始めた。17世紀の半ば頃、ロンドンの街中にコーヒ
ーショップが3百軒も林立したそうで、いかにヨーロッパ中がコーヒーで沸き立ったかを
それらの話からうかがい知ることができる。コーヒーはスパイスに次ぐ金儲けのネタを提
供するものになった。イギリス人もオランダ人もフランス人もせっせとコーヒーを南洋の
コロニーで作らせて本国に運んだ。


パリの街はどこをどう歩こうが、必ずカフェに出くわす。歩道沿いにイスやテーブルを並
べたカフェもあれば、閑静なエリアの静かな道路を前にして扉の閉まっているカフェもあ
る。だがそこが営業中であることは雰囲気からすぐに判る。カフェの街と形容したくなる
ようなそんなパリに史上初めてオープンしたカフェは、残念ながらパリっ子の心を奪うこ
とができずに店をたたむことになった。

フランスにコーヒーの歴史の扉が開かれたとき、やはりアルメニア人の姿がそこにあった。
アルメニア人はフランスにも大勢が移住したのだ。前世代のフランスを代表する大歌手シ
ャルル・アズナブールもアルメニア人の子孫に当たる。

商業用としてフランスにはじめて到着したコーヒーは1644年にマルセイユ港に上陸し
た。その輸入にアルメニア人貿易商が関わっていた。マルセイユ港の通関記録に見られる
そのデータが多分、フランスにおける最古のものだろうと考えられている。個人が土産物
として持ち帰って来たケースはそれ以前に山のようにあっただろうから、その年以前にフ
ランス人というカテゴリーに帰属する人間がだれひとりコーヒーを知らなかったなどと考
えてはいけない。


国家経営に関わっている、最高権力者をはじめとしてその周囲を取り巻いている国政高官
たちが、一般民衆の知らない外国の珍しいものに触れるのは世界中で当たり前のことだっ
た。紅茶民族と呼ばれているイギリス人でも、一般庶民が香りを嗅いだこともない時代に
王宮内では紅茶三昧が繰り広げられていたのだから。

どこの国でも、雲居の人々は開かれた精神構造をしていたのだろう。仇敵オットマンのス
ルタンが愉しんでいるカッヴェをヨーロッパの諸王宮もすぐに受け入れたように見える。
もちろん中には呪いをかけた者がいた可能性がなくもないが、それはわたしの知るところ
ではない。

パリの王宮の中で、新来のコーヒーを礼賛する言葉が語られた。「陶器のような肌と金銀
で装飾された絹布が生み出したカップ一杯の偉大なる美」という賛辞をフランス人はコー
ヒーに捧げたという話がある。陶器のような肌とは焙煎されたコーヒー豆の艶のある視覚
的な印象を指しているそうだ。[ 続く ]