「ヌサンタラのコーヒー(6)」(2023年10月30日)

ルイ14世の通訳だったドラクロワがあるとき、王に報告した。「東方を旅行してきたテ
ヴェヌーという人物がコーヒーという飲み物を持ち帰って来て、それを愉しんでいるそう
です。かれはそれを自分のために作り、また招いた客人たちに振る舞っているという噂で
す。」

テヴェヌーは持ち帰ったコーヒー豆のストックが底をついても困らなかった。アルメニア
人商人から買うことができたのだ。そのころアルメニア人商人が輸入するコーヒー豆は、
トルコをはじめとするアラブ地方出身者、そしてその飲み物を体験して好きになったグラ
モン公爵家やマザラン枢機卿家などのフランス人上流階層や社会的名士の一族といった限
られた消費者に販売されていたにちがいあるまい。フランス人一般庶民のまったく知らな
いところでそんな事態が進展していた。それが1657年ごろの状況だった。

1669年ごろ、パリのフランス人上流層の間でコーヒーは人気の高い飲み物になってい
た。オットマン帝国駐パリ大使のスレイマン・アガはその年、パリに戻る時のおみやげに
コーヒー豆を持って行き、王宮や上流階層の知り合いたちにそれを配ったそうだ。もちろ
ん、飲んだことはあるが淹れかたを知らないひとたちにその正しい作り方を懇切丁寧に説
明した。


1671年にパリで開催されたサンジェルマンフェアにパフェルという名のアルメニア人
がコーヒー店を出した。パスカルという名前になっている記事もある。多分そこでの売れ
行きが良かったのではないだろうか。フェアが終わったあと、かれはパリで初めての常設
カフェをオープンしたのである。場所はルーブル博物館にほど近い、現在ラサマリテーヌ
という巨大なビルが建っている土地だった。屋上階にSAMARITAINEという大きな表示が見
られる、セーヌ川に面した巨大なこのビルは20世紀に入ってから建てられたものなので、
パリ初のカフェの香りをそこに嗅ぎつけることはできない。

このパリ初のカフェは失敗だった。パフェルは店をたたんでロンドンに移り、ロンドンで
やっと成功者になった。パフェルの失敗は、フェアに出した店の飾りつけがオリエンタル
調のものだったので常設店も同じ雰囲気を踏襲したところ、かれの見込みに反してパリの
住民がそれを受け入れなかったことが原因のひとつになったという話が語られている。原
因のひとつだったのだから、他の要因も関わっていたにちがいあるまい。

パフェルの試みに商機を感じた他のアルメニア人たちもコーヒーを飲ませる店を開いてみ
たものの、なかなか繁盛するには至らない。新しいビジネスを模索していたフランス人も
その波に加わったが、これも今ひとつ繁盛しない。そんなフランス人の中には、パフェル
が雇ったフランス人も混じっていたそうだ。パフェル直伝のフランス人教え子は最初コー
ヒー店を開き、最後にはそれがレストランに発展した。

店主の中に、いろいろ考えたあげく、店内の雰囲気を変え、売り物もチョコレートや菓子
類、飲み物はコーヒーと紅茶の二本立てに変える試みを行った者がいた。そしてその店主
が成功への階段を上り始めたのである。店の賑わいが大きく変化したのだ。同業者たちは
こぞってそのスタイルに追随した。

パリっ子は金持ちから中流層、流行ファッション追従者たちに至るまで、軽く飲食しなが
らおしゃべりする新しいライフスタイルの場所に続々とやってきた。このカフェと名付け
られた店舗はパリのあちこちにオープンしてその数3百店にのぼったと言われている。パ
リを震源地にするこの波はさらにフランスの各地方都市へと流れて行った。[ 続く ]