「インドネシア文化理解(6)」(2023年10月30日) (∫)インドネシア人はbasa-basiを好む。家の前をひとが通ると、その家の主人がそのひ とに声をかける。 "Mau ke mana?" "Mau jalan-jalan saja." あるいは "Mau ke selatan." "Mari, silakan singgah dulu." "Terima kasih. Lain kali saja." (∬)ずっと昔の日本人も同じことをした。 「おや、どちらへ。」 「ちょっとそこまで。」 「じゃあお気を付けて、行ってらっしゃい。」 今のインドネシア人も昔の日本人も、まるっきり知らない他所の住人がたまたま通ったの に声をかけることはあまりせず、たいていは別段知り合いでもないが以前見たことがあっ てこの界隈に住んでいるように思われるひとに始まって隣の親しい一家に至るまでを対象 に、そのようなバサバシを行なっていたと思う。 basa-basiというインドネシア語はbahasa yang basiを意味し、basiには飲食物が腐敗し て饐えた状態の意味と追加やおまけの意味があって、その両方が当たっているという説も ある。KBBIの定義を見ると、社会交際における礼儀作法であり、情報を交換するため でなく単に礼儀として語られる言葉と書かれている。 その意味であれば日本語は多分「お世辞」「社交辞令」といった言葉が対応するのだろう が、その日本語はすべて言葉を指していて、上のような会話の例をそれらの日本語で呼ぶ のはどうもニュアンス的にフィットしない印象を感じる。語られている言葉が社交辞令な のでなくて、会話する行為そのものが社交辞令になっているのだから。 そうであれば日本語の場合、「あいそをする」という動詞句にすればその難点を克服でき そうだ。このバサバシという概念を言葉としての「世辞」「社交辞令」で対応させるより も、言葉・行為・態度のすべてを包含する日本語の「あいそ」のほうがより正確で応用度 の高い対応語になるのではあるまいか。 このバサバシというのは言語コミュニケーションが持っている、情報やアイデアの伝達・ 指示や案内の通知・説得や誘導・感情表明・人間関係構築といった諸機能の中のただひと つ、人間関係構築だけを目的にして行われるものだ。イ_ア文化が重要な価値を与えてい る社交性の中に設けられた社交術の一形式がこれだろうとわたしは考えている。 (∫)インドネシア人は、senggol-menyenggolと呼ばれる、パブリックスペースで見ず知ら ずの他人との間に起こる身体接触を問題にせず、ほとんど平気な顔で受け入れる。インド ネシア人のスペースコンセプトは比較的狭いのである。人口密度の高い社会だから、パサ ルのように人間が集まって来る場所ではセンゴルムニェンゴルが避けようもなく起こる。 (∬)先に述べられているパーソナルスペースの広さと矛盾するような教授の解説だが、こ の問題は心理スペースでなくて物理スペースの問題と解釈するべきだろう。 (∫)インドネシアでは、(たとえうわべだけであったとしても)尊敬を示すことが真実を 示すことよりも重要視される。だから客には饗応しなければならないのだ。たとえ出され る物がすばらしくなくとも。それが尊敬を示すということなのである。 同じように、新入社員は頭の鈍な先輩社員の言うことに従わなければならない。それが長 幼の序という尊敬カテゴリーのひとつになっているからだ。 [ 続く ]