「ヌサンタラのコーヒー(7)」(2023年10月31日)

決してフランス人がカフェという場所を作り出したのではない。しかしフランス人は社会
の中でのカフェの機能をひとつの文化に育て上げた。ひとびとはカフェにやってきておし
ゃべりし、世の中の諸情報を語り聞かせ、意見を述べ合って討論議論の花を咲かせるよう
になったのである。

18世紀末のフランス革命に向かって国内政治情勢が怒涛の嵐をまき起こしはじめたころ、
後世に名を知られたヴォルテール、JJルソー、ドゥ二・ディドロたちインテリ層はカフ
ェに居座って政治談議を盛んに行っていた。フランス人が革命に向かって突き進んでいっ
たのはカフェで醸成された思想が社会の意識に方向性を与えたからだという説を支持する
ひとも少なくない。


ヨーロッパ諸都市のカフェは知識階層のサロンになり、文学者・芸術家・文化人・社交界
名士・政治家たちが集まる場所になった。フランスはパリのサンジェルマンデプレにある
カフェ「レドゥマゴ」は哲学者のジャン・ポール・サルトルとシモヌ・ドゥ・ボヴワルの
ごひいきサロンだった。草の根庶民にとっては別のカフェがきっと、仲間階層の集まるサ
ロンになっていたのだろう。

開かれた社会というのは、その構成員が集団学習・意見交換・文化創造の場であるアゴラ
空間を自然と生み出し育んでいくもののようだ。ヨーロッパでは個人の邸宅がサロンにな
り、そしてカフェもサロンの役割を果たした。

インドネシアのカフェであるクダイコピkedai kopiもひとびとが集まって意見や情報を交
換し合う場所になっている。ただインドネシアの場合は、既知未知の人間が集まって物語
し合う古代からの習性が豊潤に残された民族性によってライフスタイルとしてのクダイコ
ピがその習性を発現させる受け皿になった印象があり、横溢する土着的雰囲気が草の根庶
民にとってのサロンを形成する流れを容易にしたのではないだろうか。ひとびとは情報の
出所を「クダイコピの雑談で耳にした」と言って曖昧にする術に長けるようになった。

この種の大衆サロンスタイルは東南アジアで福建文化の中にも滔々と流れ込んだ。華人プ
ラナカン社会に生まれたkopi tiamでひとびとは飲食し、将棋やカードで遊び、おしゃべ
りし、情報交換した。ただし、そこへ来るのは男だけだった。その点についてはクダイコ
ピもたいして違わない。


インドネシア語のkopiはオランダ語koffieの音写であり、トルコからヨーロッパに入った
言葉がオランダ語を通してヌサンタラのムラユ人の語彙の中に摂取された。福建人はそれ
を福建語に摂りこんで[口加]+ [口非]という漢字を当て、コピと発音した。コピティアム
とは[口加]+ [口非]+ [店]と書いてそのように発音する福建語だ。

ちなみに北京語でもコーヒーを同じ漢字で書くのは、福建人の書く文字が中華文化の中に
定着してしまったからではあるまいか。だから漢字はそのまま採用したが発音が変えられ
た。国際共通語になっているカフェに合わせてそれをカフェイと読ませたのだ。北京語で
コーヒーのことをカフェイと言うから、中国人はフランス文化からコーヒーを摂りこんだ
などと想像をたくましくしてはいけない。文献学的には、米国人宣教師が上海で西洋の料
理飲食物を紹介したのが[口加]+ [口非]の事始めだったとされている。上海人はその漢字
をコフィと発音した。

非という旁は北京語でもfeiだったから問題なかったが、加という旁は北京語でjia・jie
・zhuなどと発音されるのが標準であり、kaという発音は存在しない。加という旁をkaや
koと発音するのは中国南部地方の言葉なのだ。そのために、加という旁の使われた文字で
口偏のものだけが北京語で唯一kaと発音される文字になった。現代中国語大辞典を調べて
見ればこの現象を裏付けることができるだろう。[ 続く ]