「インドネシア文化理解(9)」(2023年11月02日)

(∫)他の人と食事すると、必ず誰かがみんなの食事代を払うのがインドネシアの風習だ。
同じような顔ぶれで頻繁に行われる場合は、誰が決めるでもなくて回り持ちのコンセンサ
スがすぐに形成される。もしも、だれもが金持ちと認めている人間がその中に混じってい
れば、社会モラルとして金持ちの負担が当然というコンセンサスもあるために、ほとんど
毎回金持ちのおごりということになる。そういう立場に立つ人間を言い表すのにcukongと
いう言葉が使われる。チュコンのいないグループでは、みんなで金を出し合うこともなさ
れる。その場合には、細かい内容をだれも気にしない。
(∬)cukongとは福建語の「主公」がインドネシア語に摂りこまれたものだ。現代中国語で
も発音はほぼ同じであり、意味もよく似ている。中国語の意味は身分関係におけるご主人
様が第一義で派生語義がいろいろ別れるのだが、イ_ア語の語義は金主が第一義になって
いる。とても自分の資金ではできないような規模のビジネスを行なっているイ_ア人の青
年実業家はたいてい、チュコンが裏に付いているのが普通だ。チュコンは人間にも投資す
るのである。
わたしはインドネシアビギナーのころ、会社の部下を誘って昼食に出たことがある。自分
が食べたものを自分が払うという日本式常識に従ったところ、部下が不満げな顔をしてこ
う言った。「インドネシアでは誘った人間が誘われた者の支払いもするんですよ。」
わたしは日本式常識を成り立たせている論理を説明した。「自分が食べたものを他人に支
払ってもらうのは、支払者に対する負債の発生を意味している。支払い能力がないなら話
が違うが、他人に負債を負えばその者と対等の立場に立つのが困難になる。対等な人間関
係を維持するためには、自分が必要なものを他人に支払ってもらうようなことは避けるべ
きだ。」
今にして思えば、イ_ア人の金銭観念に対してまるで的外れなことを言ってしまったよう
だ。金銭というものはイ_ア人にとって心理的な負い目の原因になるものではなかったの
である。イ_ア人にとって精神的な負い目になるのは恩を与える行為が自分に対してなさ
れた場合であって、金銭負担はその埒外に置かれているように見える。死に物狂いになっ
て、石にかじりついてでも個人的な借金を返そうとするイ_ア人が滅多にいないことがそ
れを説明しているようにわたしには思われる。

(∫)インドネシア人は他人に何かをあげるのを好む。チップや心付けとして金銭をあげる
際にも、金額を大きくしがちだ。ジャカルタのホテル従業員の話では、インドネシア人金
持ちのチップは金額が大きく、単なるチップなのに25万ルピアももらった者がある。
外国人へのプレゼントも、高価な品物を進呈するケースが多い。
(∬)チップの金額はだいたい相場が決まっているので、それより小さいともらう側が嫌な
顔をし、相場より大きいと相場が引き上げられて他の客の支出を増やすことになり迷惑を
かけるから、しっかりと相場通りに振る舞わなければならない、という話をするひとがと
きどきいた。少なくともインドネシアでそんなことはありえないのだが、観念主義者はど
うもそういう話を信じてしまうようだ。
あるホテルのポーターが25万ルピアのチップをもらったからと言って、そのホテルのチ
ップの相場もその都市のホテルチップの相場も25万ルピアになるわけがないではないか。
ノーと言えない国民性を持つ観光客に吹っかけてみようという行為はもちろん起こるだろ
う。先例があろうがなかろうが、それをしようとする人間は必ずいるものだ。他人のチッ
プ金額をとやかく言うのは対処の方向性が間違っていないだろうか?
[ 続く ]