「インドネシア文化理解(10)」(2023年11月03日)

(∫)インドネシア人にとって業績や成功へのオリエンテーションはそれほど強いものにな
っていない。一般的な生活意識が競争社会からまだ遠い位置にあるからだ。自然の恵みが
人間の生存を容易なものにしているために、gampang puasと呼ばれる性格を育んだ。そこ
そこの成功が得られたらそれで良しとし、大成功を実現させようと全身全霊を込めて追い
求めることまではしない。それをジャワ人はSakmadya, tidak usah ngoyo.と表現する。
中途半端なオリエンテーションなのだ。
事業が成功して新興成金になったインドネシア人はオカベと呼ばれる。Orang Kaya Baru
の頭字語だ。インドネシアのオカベたちは概して長続きせず、容易に転落して行く。質素
な暮らしをもっと続けようとしないで贅沢三昧を始めるから、長続きできない。
プロジェクトを受注した請負業者がクレジットの金を手に入れると、工事を終わらせるよ
りも先にベンツを買って乗り回し、妻の数を増やすのである。そして工事が完了する前に
かれは破産してしまう。中国人がほんとうに離陸してから贅沢を始めるのと大違いだ。
(∬)業績をあげて世間から見上げられることはもちろんイ_ア人も大好きだから、切磋琢
磨するモチベーションがないわけでは決してない。ガンパンプアスというのは貪欲でない
という意味だろう。小成に安んじて、大成する前に努力を終わらせてしまうのである。
イ_ア社会は金持ちになった成功者を貴人のように遇する。贅沢三昧の暮らしが魅力的で
あるということよりも、社会の貴人になって下にも置かない待遇を得ることのほうが、イ
_ア人にはより大きい魅力になっているのではあるまいか。世間から見上げられてチヤホ
ヤされることがオブセッションになっていて、金持ちになるのはそのための手段にされて
いるようにわたしには見える。
世間にとって、金を湯水のように使う人間はエライひとであり、エライひとをみんながチ
ヤホヤするのがインドネシア社会の特徴であるように思われる。シェアリング社会だから
金持ちは自分をチヤホヤする人間に容易に金を与えて喜んでもらおうとする。チヤホヤす
る人間にもメリットがあるからこそ、チヤホヤが行われるのだ。この種のエライひとは世
間から見上げられてチヤホヤされることによって自己存在を確認するというメカニズムの
中に自分を置いているように感じられる。
金持ちにならなくても、金を湯水のように使うことはできる。自分の所有になっていない
金であっても、自分がそれを自由自在に使える立場に立てばよいのだ。世間はその人間の
評価資産リストを見て金持ちと思うのでなく、金の使いっぷりを見て金持ちのラベルを貼
るのである。
自分の一家一族の生活基盤の確立や社会名士というステータスがもたらす名誉欲の充足が
金持ちになることの目的なのでなくて、世間からエライさんとして見上げられてチヤホヤ
されるというあり方の中に出現する自己存在確認が金持ちになることの意味合いなのだろ
う。おまけに金持ちであることを社会に示すために散財しなければならないのだ。大金を
持ちながらそれを隠して質素に生きている人間をだれがチヤホヤしてくれるだろうか?
この原理が「金がイージーカムイージーゴーである」「金に未練を残さず、他人に与える
ところに喜びがある」といった金銭取扱い姿勢や信念と一緒になってイ_ア文化における
金銭感覚を形成しているとわたしは考えている。
イ_アのような自然環境であれば、金がなくとも土地さえあれば食いつなぐことができる。
たとえその土地の所有者が他人であっても、土地が食糧を産してくれるのだ。都会の住民
が老後のために田舎に土地を買うと、その土地が占拠されたり勝手に水田にされたりしな
いよう、地元の人間に金を払って見張り番をしてもらう。見張り番はその土地に好きな作
物を植えてそれを自分の収穫にする。もちろんシェアリング社会だから土地オーナーにも
一部を分ける。金がないと餓死凍死してしまう怖れの高い国とは土地の意味合いさえもが
違いを持っている。
金のために必死になって生きる文化と金がなくとも露命がつながる場所の文化では、金に
対する姿勢が異なって当然という気がする。もしも文化によって金銭の意味が大きく異な
っているのであれば、異文化にある金銭観念を誤った基準で評価するという愚は避けたい
とわたしは思う。
[ 続く ]