「ヌサンタラのコーヒー(9)」(2023年11月02日)

コピトゥブルッはご存知のように、コーヒーの粉をグラスに入れてその上から熱湯をぶっ
かけて作るもので、コーヒーの滓が口に入るのが野趣のひとつになっている。その野趣を
嫌う洗練されたひとびとが多いのは残念なことだ。コピトゥブルッは細かい粉末のものの
ほうが濃くなっておいしい。水分をほとんど飲み尽くすと下に泥のようになった滓が残る
ため、わが家では昔それを泥コーヒーと呼んでいた。

ワルンコピユンの店主もコピトゥブルッの滓を無くして、飲む人の気を散らせないように
したかったのだろう。コピサリンはその泥コーヒーが濾し布で2回濾されるのである。


外国人の多くがインドネシアのコピトゥブルッを好まないのは、やはり滓が口に入るのを
厭うからではないだろうか。コピサリンという手法の出現は、伝統的コピトゥブルッから
濾されたものへの嗜好の変化がインドネシア人の間で起こっていることを示しているよう
に思われる。

しかしどうしてわれわれはコーヒー粉末の滓が口に入ること、ましてや飲みこむことをそ
れほどまでに忌避するのだろうか?滓とは所詮、エキスが抽出されたあとのコーヒーでし
かないではないか。エキスが抽出されたら残滓は毒物に変化するのだろうか?そんなこと
はあるまい。しかしそれが口の中に入って来るとわれわれの身体感覚におぞましい感触が
発生し、それを吐き出そうとするのが一般的な人間の反応なのだ。

それは本当に純粋な生理現象なのだろうか。それともわれわれの脳内に形成された、バイ
アスの掛かった観念に導かれて身体的な生理反応が誘発されるために起こっているのだろ
うか。果たして、コーヒーの粉末を食べようと思う読者はいらっしゃるだろうか?コーヒ
ーは食べ物じゃないですって?本論の頭書に記されているように、コーヒーが飲み物にな
る前、コーヒーは薬品として食べられていたのではなかったろうか。エチオピア人はいま
だにコーヒー粉末を混ぜて焼いたクッキーを食べているではないか。エチオピア人は人類
の一部ではなかったのか?

コーヒーの滓をカップから徹底的に排除しようと努める人間の神経質なふるまいに精神の
バランスが崩れてしまった現代文明の断片を感じるのは、異様で狂った姿勢ということに
なるのだろうか。別の狂人を見たひとりの狂人が「おまえは狂人だ」と言い、相手の狂人
も「いや、お前こそ」と指さし合いながら言っているカリカチュアが人間世界の実相なの
だろうか?ワルンコピユンに戻ろう。


ワルンコピという名前で呼ばれてはいても、客はそこへ食べるためにやってくる。コーヒ
ー紅茶は食事の友になっているのだ。昼前から夕方まで、あらゆる階層のひとびとが年寄
りも家族連れもやってくる。夕食を終えて夜も佳境に入るころ、若者たちがコーヒーを飲
みにやってくる。そんな若者たちの多くは、小さい子供のころに親に連れられてこの店に
やってきた。店が世代交代を経るのと同じように、客も世代交代をしている。[ 続く ]