「ヌサンタラのコーヒー(10)」(2023年11月03日)

メダンの街で最古のコピティアムのひとつが、メダン鉄道駅の南西で大通りにほど近いヒ
ンドゥ通りとプルダナ通りの交差する角地にあるKopi Mieng Haoだ。しかし世間では店主
の名前を採ったWarung Kopi Apekという名前で通っている。創業は1922年にさかのぼ
る。当然、この店は長い歴史の変遷を黙したまま眺めてきた。

東スマトラ地方で農園事業が盛大な花を咲かせた時代、大型農園会社のLondon Sumatera 
Company, Harrison Crossfield, NV Borzoiなどの社員や経営陣が肩で風を切って立ち寄
った。オランダ東インド軍の将校や兵士たちもコーヒーを飲みに立ち寄り、日本軍政期に
は日本人の高級軍人や官吏もやってきた。そして独立インドネシア共和国に変わってから
はメダンの街が人種のるつぼであるのを証明するかのように、華人・ジャワ・タミール・
ニアス・マンダイリン・トバ・カロ・シマルグン、ムラユなどさまざまな諸種族の顔が入
れ替わり立ち代わりこの店にやって来る。

長い歴史を生き抜いてきたこの店のコーヒーの味は連綿と維持され続けている。香りと味
は世界トップクラスという折り紙の付けられたシディカラン産コーヒー豆が使われている。
熱いのも冷たいのも、苦いブラックでも甘いブラウンでも、どんな飲み方をしようがシデ
ィカランコーヒーは最上のものをもたらしてくれる。美味しいコーヒーの楽しみを求める
ひとびとはシディカランのコーヒーによって結び合わされるのである。

ワルンコピアペッの開店は午前6時半で、閉店は14時。毎日、朝のコーヒーと朝食を楽
しむ客で店内は満席になる。店の表にも食べ物の作り売りが種々並んでいて、その朝食を
持ち込んで店内でコーヒーだけを注文する客もいる。店内ですべてを買うように強制する
精神はそこに見当たらない。


バンカブリトゥン州ブリトゥン島のタンジュンパンダンでホー・コンジ―氏が1943年
に開いたワルンコピが今や全国に2百店を擁する大フランチャイズになっている。コンジ
ー氏は元々バンカ島の住人だったが、日本軍政が始まって生活難に陥り、ブリトゥン島に
移ってクダイコピ商売を始めた。そのころブリトゥン島にはあまりクダイコピができてい
なかったので、かれの店はこの地方における老舗のひとつになった。かれは店名に自分の
名前を付けたから、その質素なクダイコピの看板にはKong Djie Coffeeという文字が書か
れている。

コーヒーの味に特徴があるため、新進のコーヒーショップに負けない、底力のある商売が
続けられてきた。それが現在の繁栄の元になっている。バンカブリトゥン州ではコーヒー
が穫れないために、どのコーヒーショップもスマトラやジャワのコーヒー豆を使っている。
コンジーはランプンのロブスタを7割、ジャワのアラビカを3割という比率でブレンドし、
布を敷いた濾過器に置いて、上から熱湯をかけて地獄を作る。それがコーヒーの原液にな
り、濃さを客の好みに合わせて供する。

コンジーコフィーは午前5時に開店し、16時に閉店する。漁師や建設労働者から地方議
会議員までが朝のコーヒーと朝食を摂りに店に立ち寄り、そのあと仕事場に向かう。そし
て仕事を終えた夕方、帰宅の途上でまた立ち寄り、コーヒーとおやつを賞味し、店に居合
わせたひとびとと世間話をはずませてから家に帰って行く。コンジーコフィ―は地元民に
そんな習慣を養った。


バタヴィア中華街で名を知られた徳記茶室というクダイコピがある。現在の西ジャカルタ
市グロドッのガングロリアで1927年に開業したこの店は現在Kopi Es Tak Kieの名称
で営業している。今の店主は創業者リオン・クウィチョンの孫のアヨウ氏で、三代目の店
主になる。アヨウがこの店を継いだとき、かれはランプン・トラジャ・シディカランなど
のロブスタやアラビカの豆を混ぜ合わせた独特のブレンドを作ってアイスコーヒーにした。
それがコピエスタッキーの発端だそうだ。[ 続く ]