「ヌサンタラのコーヒー(11)」(2023年11月06日)

1878年のバタヴィアで、モーレンフリート東岸道路の北寄りに大きな店舗がオープン
した。その店の屋号TEK SUN HOの大きな文字が瓦屋根の上に立てられた。当時の記録には
Tek Soen Hooというオランダ式綴りで書かれていて、この屋号の綴りはシンガポールなど
で使われた中国語のアルファベット表記にならったものと思われるのだが、南洋華僑コミ
ュニティは福建や客家など各種族ごとに音写のルールが異なっていて統一されていなかっ
た。店主のリアウ・テッスンは広東出身の客家人だ。かれはバタヴィアに移り住んで地元
プリブミの娘を妻にし、プラナカン家庭を設けた。

屋号TEK SUN HOの下には少し小さい文字でEERSTE WELTEVREDENSCHE KOFFIEBRANDERIJとい
うオランダ語が表示された。ヴェルテフレーデン最初のコーヒー焙煎所という日本語に翻
訳できるだろう。その時代、ヴェルテフレーデンという言葉がダンデルス総督時代に比べ
てはるかに拡大されて使われていたことがそこから判る。

Molenvliet Oostは今のHayam Wuruk通りのオランダ時代の名称だ。面積5百平米の地所に
立てられた大きい建物はチークの壁を使っていくつかの店舗に仕切られ、一種の百貨店の
体裁を成していた。左側は日用雑貨品、中央は縫製品、右は飲食店になっていたようだ。
飲食店では飯が供されたが、コーヒーも食事の友に欠かせないものにされた。

道路の向こうを流れる運河の水は澄んでいて、客は道路を通る穏やかな交通の流れを眺め
ながら飯や軽食を食べ、コーヒーをすするのが一般的なスタイルだった。コーヒーカップ
の受け皿を熱いコーヒーの上に乗せてふたをし、飯を食べ終わると煙草を愉しみ、煙草が
一本燃え尽きたらコーヒーのふたを開いて受け皿にコーヒーを入れ、息で少し吹き冷まし
てからコーヒーをすするのがこのクダイの中でよく見られる作法だった。

その飲み方はオランダ人がプリブミを差別するために、白人トアンと同じ飲み方をさせず
に卑しめることを目的にして行わせたものだという論評をかつて耳にしたことがあったが、
テッスンホーの店で飲食する者はほとんど華人か上流層プリブミだったと思われるため、
オランダ人がそんな階層の人間まで一生懸命に卑しめようとしたようには思えないのだ。
現代のコーヒー業界関係者はその飲み方を、コーヒーの滓を口に入れないためのものだと
説明している。

ともあれ、このテッスンホーの飲食店がジャカルタ最古のクダイコピであり、言い換えれ
ば最古のコピティアムだと言われている。

テッスンのクダイコピにコーヒー豆を買ってもらおうとして、オランダ資本の農園でない
プリブミ農民の小規模コーヒー生産者がテッスンホーの裏口に竹編みの平籠を頭に載せて
やってきた。やってくるのはたいてい女性だった。その平籠はインドネシア語でbakulと
言い、オランダ時代にはbakoelと綴られた。おまけに街中を徘徊する女性物売りはたいて
い商品を竹の平籠に置いて頭の上に載せ、徒歩で売り歩いたから、その女性たちもバクル
と呼ばれるようになった。後にそのバクルのイラストがテッスンホーのロゴマークに使わ
れた。


1910年、テッスンは店の経営を養子のリアウ・テッションに譲った。中国で学業を終
えてバタヴィアに戻ったばかりのテッションはテッスンホーの事業に加えて不動産や鳩の
養殖事業に手を広げていった。また社会活動にも熱心で、学校やモスクその他のさまざま
な社会施設の建設を支援して資金面のバックアップを行った。

ところが1942年に日本軍政が始まると事業が続けられなくなり、すべての事業を停止
してテッションの一家はボゴールに近いメガムンドゥンに避難した。テッスンホーは倒産
したということになるわけだが、テッションの息子ティエンジーが軍政からの抑圧に抵抗
してコーヒー販売店をその場所に開いた。とは言っても、事業資金などどこにもありはし
ない。かれはコーヒー生産農民を説得して委託販売させることにしたのだ。[ 続く ]