「ヌサンタラのコーヒー(12)」(2023年11月07日)

ティエンジーはコーヒーの粉末を茶色い油紙で包装するという大革新を行った。かれは自
分が販売するコーヒー豆の品質を他人任せにしなかった。みずからパサルに足を運び、豆
のクオリティを調べて良い物だけ扱った。かれは容器に入っている豆を一握り掴み取る。
そのときに豆の温度が感じられる。冷たく感じられるものは含有水分量が多いのだ。温か
いものはよく乾燥している。ティエンジーは冷たい豆を選択しなかった。

良質の粉末コーヒーを求める市民はテッスンホーを購入場所の筆頭にあげるようになった。
そのころひとびとはリアウ・ティエンジーのコーヒー販売店をWarung Tinggiと呼びなら
わすようになっていた。それは、ハヤムルッ通りのその地区に並ぶ建物の中でテッスンホ
ーの屋根がひときわ高かったことに由来している。そのエリアに行ったことのないひとで
も、その地区の高い屋根のワルンへ行けと言われたら、すぐにそこを見つけることができ
た。

一大政変が起こってオルバレジームが始まったとき、反中国の嵐が吹き荒れて公共空間か
ら中国語が追放された。それに応じてティエンジ―は屋号をテッスンホーから通称のワル
ンティンギに変更した。1967年のことだ。ティエンジ―はそれと同時に新しいブレン
ドコーヒーを開発して、ワルンティンギのブランドで新発売した。ジャカルタのコーヒー
通の間でワルンティンギの名はコーヒー豆のメッカになった。

1978年にティエンジ―が没した後、4人の子供が共同でワルンティンギを経営してい
たが、最終的に遺産を4人で分けることにし、ワルンティンギの店は同じブロックでちょ
っと奥まったタンキスコラ通りに移された。かつてのテッスンホーの建物は建て替えられ
て、今では店舗住宅になっている。

ワルンティンギの遺産を受け継いだクダイコピは今、Koffie Warung Tinggiの名前でグラ
ンドインドネシアにオープンしており、タンキスコラ通りの店はリテールオフィスになっ
ている。だがそこをカフェとして使う客がいることも店主は視野の中に入れている。

ジャカルタにいくつか見受けられるコーヒー豆販売店やキオスの中に、コーヒーを淹れて
飲ませてくれる店がある。試飲でなく、メニューが用意されて定価が付けられている所も
少なくない。こうなると、コーヒー豆販売店兼クダイコピということになる。そんな場所
ではメニューに書かれていないものでも、場合によっては作ってくれることがある。

コーヒーに限らず、ほとんどあらゆる飲食物の小売り売店では、メニューに書かれていな
いものでも品物がそこにあれば、店側が損しないかぎり客の求める物をたいてい作ってく
れる。値段が違って来るのは当たり前のことだ。店側のその柔軟性が客をして、自分が大
事にされていると感じさせるのである。わたしがインドネシアを去りたくない理由のひと
つに、きっとそれが含まれているに違いない。


ティエンジーの子供たちの中でワルンティンギの事業を継いだのがルディ・ウィジャヤ氏
で、今はそのお嬢さんのアンジェリカ・ウィジャヤさんが事業の采配を振るっている。

一方、ルディの弟のダルマワン・ウィジャヤ氏のお嬢さんシェニー・カトリヌ・ウィジャ
ヤさんも祖父の事業を継ぎたいというオブセッションを抱き、悩みぬいたあげく会社勤め
を辞めてクダイコピ事業に飛び込んだ。シェニーは弟と組んで2001年に南ジャカルタ
市バリト通りに一号店をオープンした。屋号にはBakoel Koffieという名称が使われた。
ワルンティンギのロゴになっているバクルだ。

テッスンホーはインドネシアのコーヒー史のさきがけであり、その子孫の娘たちがヘリテ
ージを維持し後世に伝えて行こうとしている姿は感動的だ。現代のクダイコピであるワル
ンティンギとバクルコフィ―の間に商売敵という意識はないそうだ。かの女たちは一様に、
テッスンホーのコーヒー事業は一族のヘリテージであると共に、インドネシア社会のヘリ
テージでもあると語っている。[ 続く ]