「ヌサンタラのコーヒー(13)」(2023年11月08日) ヌサンタラでのコーヒー栽培は言うまでもなくVOCが始めたものだ。VOCはインドネ シアでコーヒーを栽培させようとして17世紀終わりごろに苗を持ち込んだものの、最初 からすんなりと成果が上がったわけでもない。しかしそれで諦めるようなオランダ人では なかったのである。 1700年代に入ってからも、その努力は続けられた。中でも特に、拠点を築いたバタヴ ィアから南部に向けて支配領域の拡大努力が払われた結果、支配権を握った土地での栽培 という、自然条件以外での困難要素を大幅に低下させたことがインドネシアにおけるコー ヒー栽培の定着を促すことになった。 つまりそれが起こったのがTatar Sundaと呼ばれるスンダ地方中央部の山岳高原地帯だった のだ。あの手この手を使って領地支配権をプリブミ王国から奪取したVOCは、手に入れ た土地を使って国際的な商業用農産物を生産するアイデアを実行に移し始めた。 後に第17代総督になるファン・ホールンは南インドで入手したコーヒーの苗の栽培を1 696年にスタートさせた。かれはまずバタヴィア郊外のストライスウエイクStruyswijk で実験栽培を行った。小規模なコーヒー園が作られ、そこで育ったコーヒーの木の実が収 穫されて1706年にオランダのVOC本社に送られた。通称ヒーレン十七と呼ばれる取 締役会は感激と興奮で狂喜したそうだ。 このストライスウエイクという土地については: 「サレンバ(終)」(2018年04月06日) http://indojoho.ciao.jp/2018/0406_1.htm に詳しい話が掲載されているので、ご参照ください。 バタヴィアVOCはさっそくタタルスンダで大規模なコーヒー栽培に取り掛かった。言う までもなくムナッMenakと呼ばれる地元支配貴族層を通してそれが行われた。地元支配者 が領地住民に命じて行わせるのであり、そのほうが現場の統制をはるかに完璧なものにし ただろうことは疑う余地がない。1711年、チアンジュル県令のアリア・ウィラナタが コーヒー102ポンドをはじめてバタヴィアに送ったところ、VOCは1ピクル(76キ ログラム)当たり50フルデンという予想外の高額を支払った。地元民の意欲が膨れ上が ったことは想像に余りある。 それから1720年までの間にヨーロッパでコーヒー価格が値上がりを続けたから、バタ ヴィアのVOCは東インドでコーヒー豆を集めることに躍起になった。1717年には2 千ポンドのコーヒーが船積みされ、1724年から1736年まで年間およそ3千トンの 生産が続いた。しかし生産がコンスタントに上がる土地でなければ、資本投下はロスを生 む。どこでもよい、という訳にはいかない。 ヘンドリック・スワルデクローン第20代総督(実質任期1718−1725年)のとき、 VOCはプリアガンとチルボンで公式にコーヒー栽培を開始した。つまり自分の領地の中 で、法規を定めてこの商業用農業作物の生産を支配者のための制度にしたということだ。 その制度は従来から原住民が生計のために行っていた移動式畑作活動を制限し、またムナ ッたちが自由に行っていた新地の開墾にも制限を与えた。土地の所有権もヨーロッパ式の 概念に従うように義務付けられた。スンダ社会を農園作物栽培に依存させることが進めら れたのである。それがPreanger Stelselと呼ばれるものだった。 スンダのムナッたちはプリアンガーシステムに即して大々的にコーヒー栽培を行い、VO Cの定めた価格でVOCに納入した。購入者は言うまでもなくVOCの独占だ。チチャレ ンカからパダラランにかけての一帯にコーヒー農園が広がり、更にチアンジュルでもコー ヒー農園が増加した。その後、VOCは1798年に解散して消滅したものの、領地支配 権を引き継いだオランダ植民地政庁は1830年代のファン・デン・ボシュ第44代総督 の時代に全国的に栽培制度を実施したが、タタルスンダの地ではその百年前から似たよう なことが既に行われていたと言えるにちがいあるまい。 1800年、県令が植民地政庁に納めるコーヒーは1ピクル1フルデンの値が付けられた。 バンドン県令はコーヒー栽培に大いに熱を入れたので、他地域をしのぐ生産量になった。 かれはなんと、年間に10万フルデンの収入を政庁から得たそうだ。その当時のオランダ 東インドにおける県令の公式報酬が月給1千2百フルデンだったのと比べて見るとよいだ ろう。[ 続く ]