「インドネシア文化理解(13)」(2023年11月08日) (∫)インドネシアで何かを決定するための会議が行なわれるとき、musyawarah〜mufakat 原理にもとづいて議事進行が行われる。会議参加者は徹底的に意見を交わし、最終的にコ ンセンサスが形成される。そのため、票決が行われないのが普通だ。達した結論に反対す る者たちは、陰で愚痴を言うことしかできない。 この方式ではたいへん多くの妥協が行われることによって集団の和が維持されるのである。 出される意見もたいていが集団や階層の利益を代表する形を取り、個人の考えという色合 いは薄い。 インドネシアの慣習の中で悪い面が顔をのぞかせるのは、若年の会議参加者があまり意見 を述べず、年長者たちの前で畏怖してしまうことだ。これは多分、インドネシアの家庭教 育やしつけが専制主義的だからだろう。年長者の指示にさからってはいけない。人生体験 をより多く積んだ年長者の言うことには素直に従うのが善なのである。 (∬)複数の人間に関わることを決めるとき、その決定の場に参加するひとたちはムシャワ ラを行なってムファカッを模索するのである。ムシャワラとは問題解決のために合意事項 を決めるのを目的にして一緒に検討することを意味しており、ムファカッは同意や合意を 意味している。 何かを決定するための会議を催すとき、会議参加者がそれぞれ自分の意見を述べ合い、質 疑応答し、最終的にコンセンサスに達するというパターンがムシャワラ〜ムファカッとい うものだ。投票したりして多数決で決めることをしない。参加者を賛成派と反対派に二分 して、数のパワーで相手をひしぐというメカニズムにしないのである。 反対していた者がムファカッするためには必ず妥協が発生する。知らなかったことを知ら され、考えの及ばなかった点を啓蒙されて賛成派に転向するのであればたいした不都合は ないだろうが、立場や人間関係を壊さないためというような別の要素に導かれた妥協であ るなら後悔が妥協者を事後にさいなむかもしれない。ムシャワラで決まったことがらに対 していつまでも陰に回ってぶつくさ言う人間にはたいてい、妥協の基準が不純だったとい う要素が影を落としているのではないだろうか。 ともあれ、ムシャワラの中で公式に同意を表明したのだから、社会生活の中でその姿勢を 覆すわけにはいかない。こうして社会における共同生活に波風が立つことは回避され、和 をもって貴しと為す原理が実現されるのである。 ムシャワラというのは少人数で何かを決めるときに必ず使われている、世界でユニバーサ ルな方法のようにわたしには思われる。たとえば家族旅行の行き先を決めるとき、あるい は家族で外食する場合のレストランを決める際に、鶴の一声でなくてみんなで民主的に話 し合って決めようとする場合には必ずムシャワラ方式になるのではあるまいか。挙手や投 票で決める一家がないと言う気はないが、決して一般的でない気がする。 ジャワ人はその少人数方式を地域社会から果ては国家社会にまで拡大して伝統慣習にして きたという見方ができそうだ。鶴の一声は専制主義でありデモクラシーは投票や挙手によ る多数決だという二元論は、人間というもののもっと奥深い面を見ようとしない浅慮かも しれない。米国人でさえムシャワラを行なうのだ。「12 Angry Men」というハリウッド映 画の中にわたしは、米国人がムシャワラ〜ムファカッを行なうとこんな様子になるのだと いうことのサンプルを見る思いがした。 (∫)米国人はlangsung dan terus terangを好む。langsungとはdirectの意味であり、te- rus terangはfrankを意味している。介在物や夾雑物の混じらない状態と率直で正直にあ りのままを示す態度を指している。いわゆるstraight forwardだ。ところが東洋でそれは アグレッシブ且つオフェンシブであると見なされて嫌われる。 他人への批判、金銭や助力の要請、などといったセンシティブなことがらを述べるとき、 インドネシア人はterus terangを好まない。それがあからさまに述べられることによって、 (自分を含めた)誰かが体面を失う事態を防ごうとするのである。 言葉に出して明瞭に言わない内容を推察することがインドネシア人同士の間で期待されて いる。ジャワ人はそれをtanggap ing sasmitaと称した。ジャワ人の会話は儀礼的な世間 話四方山話で長々と時間を費やし、自分の訪問の目的についてはそこはかとなく匂わす話 をして本質の周辺を堂々巡りし、相手が自分の真意を理解したと判断できればそのまま帰 宅するが、どうしても察してくれないようだと確信したとき、はじめて本音を語る。 [ 続く ]