「ヌサンタラのコーヒー(14)」(2023年11月09日)

商業用作物は市況の変化に応じて生産調整が行われる。コーヒーの市場価格が低下してい
ったとき、政庁は農園に閉鎖を命じることがあった。1870年代にタタルスンダにコー
ヒー農園を所有していたREケルクホーフェンは、コーヒーが金にならない事態を前にし
て、これまでタタルスンダであまり有力でなかった茶の栽培に切り替える決意をした。

ケルクホーフェンはセイロンからアッサム種の茶を取り寄せて植え替えた。1872年の
その転換がプリアガンにおける茶農園の事始めと言われている。ケルクホーフェンの茶も
生産性がよく、おまけに西洋人の好む風味だったから、プリアガンのコーヒー農園の中に
茶農園やキナ農園に転換するところが増えて行った。

そのケルクホーフェンの農園は現在、バンドン県ガンブン郡茶キナ研究センターになって
いる。キナとはキニーネのことだ。この農園は最初コーヒーで始まったのだが、そんな推
移を経て広大な茶農園を持つセンターになるに至った。ここではホワイトティの生産が盛
んだ。ホワイトティの素材は開く前の葉の芽が使われる。

農園では、昔若かった茶摘み娘たちの集団が茶木の上にかがみこんでホワイトティの芽を
摘む。かの女たちの持っている容器がほぼいっぱいになったころ、作業監督人が作業の終
了を命じた。次は別の集団の茶摘み娘たちが普通の茶葉を摘むのである。

休憩に入った茶摘み娘たちのひとり、オナさん62歳は12歳の時から母に連れられてこ
の仕事を始めた。小さいころは白人トアンのお屋敷がガンブンにいくつかあり、ときどき
母がそんなお屋敷の手伝いに行ってパンや食べ物の缶詰をもらって帰って来たが、白飯と
ララップとサンバルのスンダ食より美味しいと思ったことがないそうだ。

オナはラップに包んだ白飯とサンバルを自分の持物袋から出すと、手の届く茶の木から葉
を数枚取って一緒に食べ始めた。茶葉のララップはここでしか食べられないとかの女は言
ってほほ笑んだ。


プリアンガーステルセルによって、スンダの民の大半は移動式畑作を続けられなくなり、
定住して農園で働くようになったり、あるいは水田耕作を行うようになった。その障害を
乗り越えて昔ながらの生活慣習を続けているのが、南バンテンに住むひとびとだ。それは
何人なのだろうか?

プリアンガーステルセルはタタルスンダの経済システムに二極化をもたらした。ケルクホ
ーフェンのような西洋人地主兼農園主とその一族はヨーロッパ風の贅沢なライフスタイル
を満喫した。西洋式の食事、自動車を使う移動、さまざまな生活用品や家具調度品をバタ
ヴィアから取り寄せたヨーロッパ直輸入品で満たすこと、等々。かれらは生産者として海
外とつながり、その私生活も海外を辺境の地に持ち込んだものになった。

一部上流層のそのライフスタイルは地元スンダ人が関わる余地のないものだった。せいぜ
い、お屋敷に雇われたプリブミがその経済のしぶきを多少なりとも身に受けた程度でしか
あるまい。ほとんどのスンダ民衆は農園時代が始まる前とプリアンガーステルセル後の時
代で、経済生活のレベルにたいした変化が起こらなかったのが実態だったようだ。

それでも、バンドンの街の成長によって上流層が回していた経済の波しぶきが都市部一般
住民の身におよぶ状況に少しずつ進展して行ったことは否めないように思われる。農業社
会に起こった二極化が接点を見出すためには都市の誕生が不可欠な要素になるというのが
そこにあった原理なのだろうか?


ヌサンタラのコーヒー栽培はオランダ人がプリブミに行わせる形で始められたという話が
一般的に物語られているものの、特定の地方ではオランダ人より前にローカルレベルでコ
ーヒーの消費や栽培がなされていたという話も別にあるのだ。

たとえばアチェスルタン国がオットマン帝国からコーヒー文化を直伝で摂り入れたという
説がある。また西スマトラのミナンカバウの地にも、メッカ巡礼の帰途にコーヒーの木を
持ち帰った話が残されている。

いや、それどころか、もっと凄まじい話もある。中部ジャワ州トゥマングンにあるリヤガ
ンLiyangan遺跡で焼けたコーヒー豆が遺物の中に発見された、というニュースが2016
年3月に報じられた。2007年に発見されたリヤガン遺跡は西暦紀元6〜9世紀にジャ
ワ島で勢力を誇った古代マタラム王国の遺跡であるとされている。

トゥマングン地方もコーヒーの産地であり、トゥマングンコーヒーの祖先の木が1千年以
上前に栽培されていた可能性が投げかけられているのだ。[ 続く ]