「ヌサンタラのコーヒー(15)」(2023年11月10日)

コーヒーの木には25ほどの種類があるそうだ。しかし世界的に商業生産されているもの
はそのうちのたったふたつ、アラビカ種とロブスタ種だけになっている。インドネシアで
はリベリカ種も栽培されて商業ルートに乗っているのだが、リベリカ種は二大コーヒーに
比べて品質的に劣っているとされており、インドネシアでも生産量は小さい。

アラビカ種は豆の形が平べったく酸味が強い。ロブスタ種は厚みのある丸まった豆で、味
覚はアラビカより酸味が弱く苦味が強い。ロブスタはカフェインの量がアラビカの二倍あ
るものの、香りはアラビカに及ばない。

アラビカ種はその名の通り、アフリカ東部地方原産のコーヒー豆がアラブで発展した歴史
にちなんで、世界がその名をエチオピア生まれのコーヒーに与えた。一方、ロブスタ種や
リベリカ種はアフリカ西部地方が原産だ。


飲用コーヒーの歴史の中で最初、ひとびとの味覚は酸味の強いものを好まず、苦味のほう
を好んだと言われている。酸味の強いコーヒーは胃の調子に悪影響を及ぼすと考えられて
きた。しかしトルコからヨーロッパを経由して世界中に広がって行ったコーヒーは元々ア
ラビカ種だったのであり、酸味から逃れる術はなかったように思われる。

ロブスタのコーヒー舞台への登場は、ヨーロッパで東から西に伝わって来たコーヒー文化
が西アフリカに植民地を作った国々に到来したあとで起こったのではあるまいか。新来の
コーヒー文化に接したそんな国々が同じようなものを植民地で発見して本国に持ち帰った
のが発端のようにわたしには思われるのである。

そんな推移の推測を踏まえて、コーヒー史のメインストリームを歩んだアラビカ種と亜流
のロブスタ種という権威主義的な価値観がその取扱いの軽重に影響を与えた可能性はなか
っただろうか、という自問をわたしは試みた。なぜなら、強い酸味を好まなかったと言い
ながら酸味のより小さいロブスタ種を軽輩扱いしている現実が矛盾ではないかと思われた
からだ。わたしはその答えをまだ見つけていない。


インドネシアのコーヒー栽培も最初はアラビカ種でスタートした。17世紀末から18世
紀にかけてヌサンタラで展開されたVOCのコーヒー栽培はすべてアラビカ種が使われた。
そして瞬く間にアジア最大のコーヒー産出国になっていった。

しかしその躍進をつまずかせる不測の事態が発生した。19世紀後半にサビ病が全国のコ
ーヒー農園に蔓延しはじめたのだ。1878年という特定年をインドネシアにおけるサビ
病流行の発生年としている論説もある。ともかく、病気にかかった木が枯死する現象が各
地の農園に広まっていった。オランダ東インド政庁はさまざまな対策を講じたものの、病
気の蔓延を食い止める決定打が出ない。こうして最終的に、サビ病に強いとされているロ
ブスタ種とリベリカ種への転換方針が打ち出された。

西アフリカからロブスタ種とリベリカ種の苗を東インドに取り寄せ、アラビカ種からそれ
らへの転換を全国の農園に奨励したのである。政庁はマランに近いバゲランの実験農場で
1901年から研究調査を開始している。後になって、リベリカ種は決してサビ病に強く
ないことが判明したのだが、それはともあれ、政庁はロブスタ種に渾身の期待を込めた。
そしてその対策は成功したのだ。


1900年に東ジャワのマランの町から40キロほど南東に離れたダンピッ村のウリギン
アノムとカリバカルのふたつの農園でアラビカからロブスタへの植え替えが始められた。
それがロブスタ種への転換のさきがけになったようだ。それらの農園はオランダのフラー
フェンハーヘに本社を置くCultuur Mij. Soember Agoengが経営するものだった。本社は
ベルギーのブリュッセルにあるI’Horticule Colonialeからベルギー領コンゴ(現在のザ
イール)産ロブスタ種の苗木を購入してジャワ島に送った。現地に苗木が届いたのは19
00年9月10日だった。ダンピッに続いて翌1901年にはクディリの農園事業者連盟
Kedirische Landbouw Verenigingもロブスタ種への植え替えを一斉に開始している。

アラビカからロブスタへの転換は標高1千メートルの高さを基準に置いて行われた。標高
1千メートルを越えるとサビ病の威力が衰えることが明らかになったのである。そのため
に植え替えは1千メートル未満の土地に焦点を当てて行われた。

こうして1910年ごろまでにオランダ東インドのコーヒー農園は、標高1千メートル超
ではアラビカ種、それより低地であればロブスタ種という大傾向を持つに至った。
[ 続く ]