「インドネシア文化理解(15)」(2023年11月10日)

(∫)インドネシア文化の特徴のひとつに、これから何かをしようという場合、親や社会的
有力者に祝福してもらう慣習がある。高官や社会的高位者になったのに誰も祝福を求めに
来ないと、かれは気を悪くする。しかし祝福の祈りをしてくれた高官や高位者は、計画進
行中に何か悪いことが起こっても全然助けてくれない。
(∬)祝福してもらうというのは、正確な言い方をすると神の加護が得られるように神に祈
ってもらうことだ。自分がしようとしていることに反対するひとがそんなことをするわけ
がないから、それをしてくれる親や有力者自身が自分の側に立っていることを意味し、つ
まりはかれらからの祝福も一緒に得られていることになる。もちろん神がほほ笑んだか顔
をしかめたかは、計画の結果を見なければ判らない。

(∫)インドネシア人のya(イエス)が同意や了承でないこともある。インドネシア人は信
用できないのだ。
東洋人の美徳の中に、否定や拒否をはっきり言わないで相手の心情が傷つかないように配
慮する振舞いがある。自分の上司や上位者などのような、自分が尊敬を示すべき相手に否
定や拒否をあからさまに示すのは適正な振舞いでない。相手を不愉快にさせたり、傷付け
たり、体面を壊したりしないためには、否定や拒否は隠さなければならないのだ。
そんなときの「ヤー」の意味は、明るさや活気のない顔つき、か細い声などから察するこ
とができる。部下に「できるか?」と尋ねて「ヤー」の返事をもらったはいいが、いつま
でも着手しなかったり、開始を遅らせ続けるような様子が見えたら、あのときの「ヤー」
の言葉は否定の「ヤー」だったのだと解釈するべきだ。

(∫)体面を損なうというのはインドネシアで重大な問題になる。娘への結婚申し込みを拒
むことはしないものの、親や親族が望んでいない相手からの申し込みの場合は結納がほと
んど不可能なレベルにまで吊り上げられる。申し込んだ側はそれを見て相手の拒否を判断
するが、体面が損なわれることはない。
やってもうまくいかないからやるだけ無駄だという結論が見え見えであっても、命じられ
たさまざまなことをせざるを得ない状況が人間にはしばしば起こる。統率者や高位者の体
面を壊さないようにするためだ。ジャワのことわざに、Sabda Pandita Ratu, ludah itu 
tidak boleh dijilat lagi.というものがある。神君が詔を発したときに飛んだ唾はなめ
戻すわけに行かないというような意味で、つまりきわめてオーセンティックな立場の人間
が言った言葉が否定されたり背かれたりしてはならないことを表現している。
神君的立場の人間の威厳を守るために下位者の全員が総力を挙げてその言葉に従って見せ
ることをするのが、組織の安定と団結を作り上げるみなもとになるのである。

(∫)恥をかいたり体面を失うことは、インドネシアのみならずアジア全般における大問題
である。恥が発生する理由は数えきれない。体面が失われるのは、その者がかぶっている
面がはがれて、社会的に認知されている姿と異なる醜悪な姿が露呈されたときだ。親分が
恥をさらすと子分たちが別れの挨拶もなしに去って行くのは、親分との対決を避けるため。
インドネシア人が公衆の面前で他人を叱ったり批判したりしないのは、恥をかかせず、体
面を失わせないためである。もしもブギス=マカッサル地方でそんなことをすると、短剣
で刺されるリスクに直面しなければならない。
[ 続く ]