「ヌサンタラのコーヒー(16)」(2023年11月13日)

インドネシアのコーヒー生産量推移データを見ると、1886年を超えたあたりから生産
量は下降しはじめ、1900年に入って最初の10年間に底を突き、そのあと反転上昇を
始めて1920年代後半に昔のレベルに復帰し、30年代には往時をしのぐ生産量に達し
ている。40年代の史上最悪の時代を越えたあと、生産量は再び上昇を開始したものの、
オランダ時代の最盛期の再現はできないまま現在に至っている。

1990年代のインドネシアにおけるコーヒー生産はオランダ時代の遺産をそのまま受け
継いで、90%がロブスタ種でアラビカ種は10%という比率になっていた。ところが世
界需要はアラビカ種が75%でロブスタ種は25%になっているのだ。世界市場ではアラ
ビカが高級とされてロブスタはブレンド用に使われるのが標準になっている。

世界のそんなコーヒーの嗜好に目もくれずにせっせとロブスタを作っているインドネシア
は、世界一のロブスタ生産国という賞賛を額に入れて飾ってはいても、コーヒービジネス
では後れを取るばかりだろう。だから2000年代に入ってから、インドネシア国内コー
ヒー産業界と行政はロブスタからアラビカへの転身を実行に移し始めた。国をあげてコー
ヒー生産を、アラビカ8割ロブスタ2割という理想比率に向けて推進しているのである。

もちろんロブスタの優良種をシングルオリジンとしてプロモートする努力もまた別に払わ
れてはいる。中部ジャワやブンクルあるいは東ヌサトゥンガラのルテン産のものが優良ロ
ブスタ種の推奨品になっている。

インドネシア都市部の現代的なカフェの標準コーヒーは世界の潮流に合わせて、まず間違
いなく酸味の強いアラビカ種が使われ、苦味嗜好のロブスタ種は店内から追放されている
ところがほとんどだ。しかしロブスタはまだまだ流通界の中にあふれていて、消費者との
接点は都市部で狭められているものの、ローカルの在来パサルや土地土地の老舗クダイコ
ピへ行けばたっぷりと用意されている。


オランダ時代には、世界のロブスタ需要をわがものにしてオランダ東インドは世界市場へ
のコーヒー供給をどんどん拡大していた。世界コーヒー生産国輸出統計を見ると、オラン
ダ植民地下のインドネシアは日本に占領されるまでアジアアフリカ地域で最大のコーヒー
輸出国であり、わずかにブラジルとコロンビアの後塵を拝していただけで、ヴェネズエラ
やハイチと第二グループを形成して互いに頭を出したり引っ込めたりしていた。

日本時代にインドネシアからコーヒー輸出がなされるはずもなく、戦後も対オランダ独立
闘争の中でコーヒー輸出がなされるはずもなかった。そしていざ50年代に入ってからジ
ャワやスマトラのコーヒー輸出が再開されたのだが、インドネシアからのコーヒー輸出は
1920〜30年代の勢いを取り戻すことができずに、往時の半分程度に落ち込んでしま
ったのだ。


ヨーロッパ人を中心にする昔のコーヒー飲用者は酸味の少ないコーヒーを好んだ。ロブス
タ種の需要はそこに当てこまれたものだったのだろう。それでも、いかにロブスタ種であ
ってすら豆が成熟しきっていなければまだ酸味が感じられる。そのためにかつてヌサンタ
ラのオランダ人はコーヒー豆を何年も倉庫に寝かせる手法を使ったという話がある。ヌサ
ンタラが世界に冠たるコーヒー王国になり、スパイスと紅茶の三本柱でオランダ王国の経
済的繁栄を下支えする富の提供者になったのは、オランダ人の行った切磋琢磨の賜物だっ
たのである。オランダ人は徹底的に酸味をミニマイズしたコーヒー豆の供給に努めた。コ
ーヒー倉庫では数年間という在庫期間が設けられ、コーヒー工場でもコーヒー豆を寝かせ
て熟成させる製法が標準的な手法にされていた。

プリアンガーステルセルが生み出したスンダのコーヒー栽培の伝統は、スンダ地方の美味
しいコーヒーの伝統に結実した。バンドンに1930年に設立されたアロマコーヒー工場
は今でもコーヒー愛好者の間で人気の高い生産者の地位を維持している。

オランダ時代のKoffie Fabriek Aroma Bandoengという名称を今でも商品パッケージデザ
インの中に残しているこの生産者は最初から民間資本でスタートした工場であり、加工す
る前にコーヒー豆を寝かせる手法を今でも相変わらず使っている。[ 続く ]