「インドネシア文化理解(終)」(2023年11月14日)

(∫)インドネシア人は深刻な問題を軽く見なす姿勢が優勢だ。これは計画性との関連を持
っている。計画を立てる際に徹底的にあらゆる可能性を掘り下げ、どのような不測の事態
が起こっても対処できるまで計画を練り上げることに慣れていない。長期計画の場合はな
おさらのことになる。
長期計画性を持たないでも人間を生きさせてくれる自然が人間を甘やかした。ジャワ人の
口癖Ana dina, ana upa.は「日あれば飯あり」。日が替わればその日の飯がまたかならず
付いてくる。この世界では人間が自然を支配する必要がない。大自然は何かを作り出し続
け、人間は毎日毎年、自然が作り出したものを糧にして生きている。
生きることはイージーな行為であり、その容易さがItu bisa diatur.哲学を生み出した。
どんな問題が起こっても、その場その場で必ず解決への道が見出せる。非合法な、あるい
はまともでない方法であっても、目的に到達する道は存在する。リスクを冒してでも目的
を達成したければ、こうすればいい。だから時には、その中に巨大なゲームが生じること
になる。「Itu bisa diatur.」というセリフはAdam Malik氏が流行らせた。
(∬)人間を凍死も餓死もさせない環境はやはり、人間が自然の中に抱かれる矮小な存在と
して安住することを誘導したのだろう。支配被支配という対立概念が作られず、代わりに
依存し甘え、負担をかけて自然を疲弊させる関係に向かったように思われる。何とでもな
るというオプティミズムは表面的な視野の中に充満していて、奥底の疲弊にまで目が届い
ていないかもしれない。

(∫)インドネシア人は濡れていると綺麗・清潔であると考えている、と外国人は考えてい
る。
(∬)教授のこの一文は多分、公衆トイレの床の濡れ方が尋常でないことに関する話だろう
とわたしは思う。なぜなら、綺麗・清潔であることと濡れていることは関係ないという理
解をインドネシア人がしているからだ。食卓に清潔で綺麗な皿を置こうとしてわざわざ濡
らすインドネシア人はいないし、ベッドのシーツをわざわざ濡らしてから敷くインドネシ
ア人もいない。
昔から、公衆トイレの床も便座もびしょ濡れなのはインドネシア人がそれを綺麗で清潔だ
と思っているからだ、と外国人がよく語っていた。中には、掃除人が作業を確かに行った
ことを証明するためにびしょ濡れにするのだと語る外国人もいた。
この現象の由来を論理的に解説してある情報をネット内で探してみたが、得られるものは
なかった。ただひとつ、インドネシアのそのトイレ掃除方式はオランダ時代の標準スタイ
ルが伝統と化したものだという解説がわたしの関心を引いた。オランダ本国の古い時代の
トイレはおしゃがみスタイルだったそうで、便器の縁の水濡れ(それが後の時代に水濡れ
便座になったのかも)はかえって清潔感を抱かせるものだったのかもしれない。
インドネシアのトイレを見て、「インドネシア人が・・・」と考えたところに外国人の浅
慮があったのではあるまいか。[ 完 ]