「文化ヒエラルキーはバイアスの産物(前)」(2023年11月15日)

ライター: 文筆家、ジャカルタ在住、マヌエル・カイシエポ
ソース: 2006年8月18日付けコンパス紙 "Perang Suku dan Bias Kultural"     

昨今はテレビ局も印刷メディアも、中東で起こっているイスラエルとレバノン間の戦争に
関するニュースを流し続けている。それ以前の数週間、インドネシアのマスメディアは別
の戦争を報道していた。戦争は戦争でも、それはパプア州ミミカ県クワムキ部落でふたつ
の部族が行った部族間闘争だったのだが、報道界はそれを「部族戦争」と呼んだ。

中東では、政治イデオロギーに関連するさまざまな理由でイスラエルがレバノンを攻撃し、
ヘスボラ部隊と交戦した。それは自動小銃にはじまって戦車からロケット砲に至る最新兵
器が使われている戦争だ。7月はじめに開始されて今日もなお続いているその戦争でおよ
そ1千人が死亡したと見られており、負傷者の数はもっと莫大で、都市や村落部のさまざ
まな施設も破壊されている。

一方クワムキの戦争は最初ダニとダマルの二つの部族が衝突の発端になり、それが諸方面
に拡大して行った。使われている武器は古式豊かな弓と矢だ。既に10人の死者を生んだ
この戦争は、一家族内における喧嘩が事のはじまりだった。

中東でのケースは戦争という言葉が使われるのに妥当なものだ。というのは、中東で起こ
っているその事件はホンモノの戦争だからだ。一方クワムキの部族戦争を戦争と呼ぶのは、
文化面におけるバイアスのかかった物の見方を反映するマスメディアの誇張的なドラマチ
ック化志向の産物だろう。本来的にバイアスに彩られた傾向を持つ人類学的な遺産がそれ
なのである。

< 論理の混乱 >
ふたつの人種や種族の間で互いに攻撃し合い殺し合う持続的なコンフリクトはインドネシ
アで普通のものになっている。物理的な暴力と殺し合いを伴うコンフリクトは小規模なも
のからスぺクタクルなものまでが地域差を持たないで発生する。首都ジャカルタというメ
トロポリタン都市ですら、その例外にはならなかった。

発生したすべての事件がそのコンフリクトの奥深さや内容についての詳細にほとんど触れ
ないままに、「種族間コンフリクト」というような、大まかなコンセプトで解説されてき
た。それどころか最近首都ジャカルタで起こった二種族間の、刃物を使う相互襲撃を単に
「地方出身二種族間の抗争」としか報道せず、その二種族の名称も諍いの概要も説明して
いない。

たとえばインドネシアのある地方でしばらく前に起こったふたつの種族間の、多数の人命
を奪い数百人が居住地を去って避難するような結果を招いた相互に襲撃し合い殺し合う行
動を単に「種族間コンフリクト」というあやふやなコンセプトで表現する一方で、パプア
のクワムキで起こったふたつの部族の小規模な衝突に「部族戦争」という扇動的な観念を
与えて報道するのは何故なのか?

種族と部族、コンフリクトと戦争、という区別に関して上述の対比に論理の混乱が見られ
るばかりか、思考方法の中にカルチャーバイアスが存在していることもそこに示されてい
る。ある人間の言語表現がかれの思考方法を具現化しているものであると考えるなら、そ
の人間が持っている思考方法のバイアスがかれの表現方法や解説方法に反映されるにちが
いあるまい。

誤った一般通念のひとつに、英語のtribeやtribesmanの訳語として使われるインドネシア
語sukuやanggota sukuがしばしば「後進的」「文明化の遅れた」といった語感を引きずる
点が挙げられる。

米国では、アメリカインディアンの長や統率者が往々にして、見下すニュアンスを伴って
chiefと呼ばれている。インドネシアでも同じように、パプアの社会集団の長や統率者が
そっくり同じ色を塗られてkepala sukuと呼ばれている。ところがそのクパラスクという
言葉は外部者が作った表現であり、パプア人自身の間ではほとんどなじみのないものなの
だ。[ 続く ]