「文化ヒエラルキーはバイアスの産物(後)」(2023年11月16日)

パプアの地の大部分は遠い昔から、王国やスルタン国あるいは封建的な性格のコミュニテ
ィ集合体がないことで知られていた。統率者は自分の子供に統率権を受け継がせないのだ。
それぞれのコミュニティ集合体や連合体は、能力・技術・財産・勇気・権威などといった
客観的な基準にもとづいて、いつでも自分たちの統率者をある一定期間就任させ、また交
代させることができる。

そのため、最新の人類学研究においては、特にパプア出身人類学者JRマンソベン博士の中
央山岳部地方に関する研究に見られるように、パプアの社会集団の長や統率者はいつでも
出現しいつでも交代できる「偉大なる男(Pria Berwibawa)」と呼ばれるほうが適切な存在
なのであって、封建的観念におけるクパラスクというようなものとはまったく異なってい
るのである。

< 植民地主義的バイアス >
アイデンティティ・言語・慣習などに関連して構築されたインドネシアの種族に関するわ
れわれの観念は、その多くが過去にオランダ人をはじめ諸外国の東洋人類学者が行った研
究に依拠している。それらが学術的に大きな重みをもっていることは間違いないにせよ、
それらの学術研究がコロニアリズム的偏見やヨーロッパのカルチャーバイアスから無縁で
ないということを忘れてはならない。

フランツ・ファノンが指摘しているように、西洋コロニアリズムの実践は人種差別的文化
理論に支えられているのが普通だった。コロニアリズム初期の時代に征服民族は、被征服
民族が文化を持っていないと考えていた。後になってから、被征服民族も文化を持ってい
ると征服民族は認めたものの、それは停滞した発展性を持たないものであるという理由で
依然として劣等視した。その結果、被征服民族に対する征服民族の優位を合理化する意図
をもって作り出された文化ヒエラルキーにおいて、被征服民族の文化は低階級に位置付け
られ、征服民族の文化は高位に置かれた。

災難なことに、コロニアリズムが終焉を迎えたとき、独立したばかりの国家や民族の中に
そのカルチャーバイアスが遺産となって残された。自分たちの国家や民族の中にその文化
ヒエラルキーを温存し続けたのである。特定の種族や部族は往々にして、上品で優雅な文
化ビヘイビアを持つわが文化は高度で偉大な文化であるという感覚を抱き、外にいる諸種
族の文化は礼儀作法を心得ない野卑な性質の低級文化だと見なす。

ところがレイドや他の歴史学者の研究に従うなら、インドネシアで偉大なる文化と呼ばれ
ているものの実態は敗残者のなれのはての姿なのだ。ヌサンタラの諸王国を征服したあと、
オランダ人は王やスルタンたちを操り人形にした。かれらプリブミ支配者たちは無力感の
中で外向的姿勢を内向的なものに変え、王宮の中での無為な時間を充実させようとして精
神的な価値を追求するようになり、上品で洗練された舞踊、言葉遣い、複雑な礼儀作法な
どの創造へと向かった。

それらの活動は敗残者である自己と一般庶民大衆との間に距離を生み出すことを目的にす
るものだった、ネガティブな補償の一形態だと言える。それは結果的に、今日まで継続し
ている特殊な形式の封建体質を確立させることになった。敗残者文化の化身である偉大な
る文化は現在に至るまで種々の壮麗な新しいアクセサリーを使って飾られ続けている。

インドネシアのさまざまな種族や部族のいろいろな文化がそんな迷妄に満ちた文化ヒエラ
ルキーの枠組みに置かれた視点で眺められているかぎり、われわれはカルチャーバイアス
に満ちた物の見方から免れることができないだろう。われわれは常に自分の所属集団の外
にいる諸集団を自分で作った特定のステレオタイプで眺めることになる。そのステレオタ
イプがわれわれを迷わせ誤らせるものになるのだ。

結局われわれは、A種族は品が良いが偽善的、B種族はオープンだが粗野、C種族は賢い
が詐欺師などという定説を信じ続けることになる。その一方でそれら様々な種族の子供た
ち自身が、バンダアチェからワメナに至るまで自分の出身種族のことに頭を悩ませないよ
うになってきている。情報テクノロジーの進歩のおかげでかれらは自らを、グローバルヴ
ィレッジと化したインドネシアの新世代であり世界のヤングジェネレーションのひとりだ
と感じているのだ。インドネシア共和国独立61周年、おめでとう![ 完 ]