「ヌサンタラのコーヒー(19)」(2023年11月16日)

一年間に4千億カップのコーヒーが世界中の人間に飲まれているそうだ。その消費量を満
たしている生産者は、コーヒーベルトと呼ばれている、地球の特定地域にある国々に限ら
れている。インドネシアは、ブラジル・ベトナム・コロンビアに次ぐ世界第四位のコーヒ
ー生産国なのだ。

ところが国民一人当たりの年間消費量は5百グラムしかなく、世界の百位にも入っていな
い。コーヒーの消費国はすべからく非生産国であり、生産国トップのブラジルでさえ、一
人当たり年間消費は消費国ナンバーワンであるフィンランドの半分に満たない。大生産国
の国民はあまりコーヒーを飲まないというのも、おかしなパラドックス現象である。

生産国はほとんどが植民地時代をその歴史の中に持っており、コーヒーという商品作物が
歴史の中で担った役割がそこから感じられてくる。インドネシアに至っては、そのものズ
バリと言って過言であるまい。コーヒーは植民地支配者のオランダ人を富ませてきたので
あり、インドネシア人一般にとっての嗜好飲料にはなっていなかった。


1970年代半ばごろでさえ、ジャカルタの町中にコーヒーを飲ませてくれるカフェは存
在せず、自宅かオフィスで作って飲む以外にはホテルのコーヒーショップへ行くしかなか
った。もちろん西洋レストランにはコーヒーのメニューがあるものの、食事もせずにコー
ヒーだけ飲むという振舞いを容易に行える雰囲気でなかったのも確かだ。

ところが反面、道路脇の屋台でコーヒーを飲ませるワルンコピ(略称ワルコップwarkop)
は、表通りでない場所なら至る所に存在していた。ワルコップの客層は肉体労働者を主体
にした下層階級だ。かれらにとってのコーヒーには、一日絞り出したエネルギーを補給す
るための強壮飲料の意味合いが強まるのが当然の成り行きだったろう。コピSTMJなど
というものはそんな環境の中に出現する必然性のあったものではないかというのがわたし
の感想だ。

そんな環境が中産階級の良家の子女に、コーヒーは下層労働者の飲み物というイメージを
植え付けてきたのではあるまいか。男ならまだしも、女性にコーヒーはふさわしくないと
いうセリフを70年代にわたしは何度も耳にしている。中には、コーヒーを飲むと肌の色
が黒くなるから、とコーヒーを忌避する理由を言う女性もいた。

80年代から90年代にかけて、ジャカルタの町中にカフェの看板が目に付くように?なっ
てきたものの、そこは美味いコーヒーを飲ませてくれる場所でなく、生バンドが入ってい
るお食事処だった。つまり依然として、美味いコーヒーを飲んで楽しむ文化からインドネ
シア人はまだまだ遠いところにいたということだ。

2002年5月にスターバクスが第一号店をジャカルタのプラザインドネシアにオープン
した。わたしはそれがコーヒー文化をインドネシア国民にもたらしたきっかけだったと見
ている。スタバが次々と都内高級モールにオープンするようになり、別ブランドのチェー
ン店をはじめ新興ブランドなどが続々と類似のビジネスに参入するようになった。

コーヒーをメインのメニューにするカフェ、つまりコーヒーショップが町中に出現するよ
うになったのである。それで採算が取れるということはそれだけの消費者が存在している
ことであり、それだけの消費者が国民の中にいるということはひとつの文化が形成されつ
つあるという意味に取れる。[ 続く ]