「クンタオ(1)」(2023年11月20日)

中国拳法を指す言葉としてインドネシアでは昔から、kung hu功夫という言葉よりもkung 
tao拳道のほうがよく使われてきたように感じられる。功夫というのは日本人におなじみ
のカンフーのことだ。漢字の国である日本のインターネット国語辞典を調べると、カンフ
ーの意味を表す功夫という言葉は採録されているのだが、拳道という二文字の漢字熟語は
出て来ない。もちろん中国語の単語がすべて日本語にならなければならないほどの文化宗
主国関係ではないのだから、それを問題視しなければならないほどのことでもあるまい。
今や時代は変わってしまっているのだ。

ご本家の中国で、中国拳法の使い手たちの姿やその生涯はさまざまな物語の中に描かれて
きた。インドネシアという異郷においても、その種の血沸き肉躍る物語は古くから現地在
住の華人系プラナカンの間で人気を博していた。その環境の中で連綿と伝えられてきたの
とはまた別に、cerita silatとインドネシアのプリブミが呼んだ中華式拳豪冒険物語は地
元民の間に膨大なファンの層を作り出したのである。

1930年代には、ムラユ語で書かれたジャワ島を舞台にする中国人拳士の物語が発表さ
れている。それは中国語を使わない(理解しない)プラナカン層の激増という現象に歩を
合わせたものだったように見える。

ここで言っている中国語とは中国語文のことであって中国語単語の意味ではない。拳道は
中国文化の中に興ったものであるためさまざまな中国語の単語や熟語がその術語として使
われた。kung taoという言葉自体からして華語単語なのであり、ムラユ語の小説にそれが
常にilmu silatと翻訳されたわけでもなく、kung taoやkungthaoなどの語を諸作家はムラ
ユ語作品の中にたくさん使っている。


ヌサンタラ在住華人社会では19世紀半ばごろまで、中華文化コミュニティの中で文筆活
動を行なうひとびとは華語やオランダ語をメインに使って著述していた。ところが19世
紀後半の半ばを過ぎるころにはムラユ語で著作する華人が激増した。後にパサルムラユ語
と名付けられた非ムラユ語母語者たちのリンガフランカが多くの華人プラナカン文筆家の
ペンを動かすようになったのである。

ムラユ文化の源流地域だったスマトラ島中南部からマラヤ半島そしてボルネオ島西部にか
けてのエリアでよりも、その外側にある非ムラユ語文化圏でその現象が起こったことはた
いへん興味深いものがある。この分野の文学はKesasteraan Melayu Tionghoaというジャ
ンル名称を与えられて今でも研究が続けられている。

ほぼ百年に渡って時代を風靡した中華ムラユ文学は806人の中華系プラナカン文学者が
3千5編の作品を生み出したとされている。1918年から1967年までのほぼ50年
間に勃興したインドネシア現代文学は175人の作家がおよそ4百の作品を生み出しただ
けに終わったことをテーウ博士が記している。さらにその期間を1979年まで伸ばして
みても、287人の作家による770作品というのが現代インドネシア文学初期の実力だ
ったのである。華人プラナカンの生産性の高さは文学の中にすら投影されていると言うこ
とができそうだ。

拙作「チクンバンのバラの花」< http://indojoho.ciao.jp/koreg/libroos.html >
や「小説クラカタウ」< http://indojoho.ciao.jp/archives/library013.html >
「ロー・フェンクイ」< http://indojoho.ciao.jp/koreg/libkoei.html >
あるいは「黄家の人々」
< http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/73Asian-in-Nusantara.pdf >
(「ヌサンタラのアジア人たち」の後半にあります)
などはその中華ムラユ文学から採りあげられたものだ。[ 続く ]