「クンタオ(2)」(2023年11月21日)

日本軍による占領時代が終わったあと、ヌサンタラの中華社会で華字新聞がいろいろと発
行された。中国本土で始まった共産党と国民党の対立抗争の時代を反映して、そのどちら
かを支持して毛沢東派と蒋介石派にインドネシアの中華系メディア界も二分されたが、ど
ちらの派も拳豪冒険小説を好評連載した。

インドネシアで起こったPRRI/Permesta反乱を台湾が支援したことから、スカルノ政権は
台湾と関りを持つ華字新聞を発禁処分にした。そのころ高い人気を誇った拳豪冒険小説に、
Jenghu San NuxieやSamhwa Nuxieがある。それらはインドネシア語に翻訳されて本になり、
十数回も版を重ねることになった。

華人はまたインドネシア語の新聞雑誌も発行した。代表的なものにKeng Po競報, Sin Po
新報, Star Weekly明星周刊, Pantjawarnaなどがあり、いずれもがチュリタシラッを連載
したからプリブミ読者層からたいへんな人気を集め、連載小説は続々と一冊の書籍にまと
められて刊行された。1960年代ごろまで、ケンポ―とシンポ―はインドネシアの新聞
業界で最大の発行部数を誇っていた。

その後インドネシアで最大規模の発行部数を持つ全国紙に育ったコンパスは1965年6
月28日に誕生し、3カ月後に起こった一大国家政変の嵐を乗り越えて国民の良識を語る
不偏不党のマスメディアを目指す道を邁進した。

極度に左傾化した国内政治情勢の均衡回復を求めていた国軍総司令官アッマッ・ヤニ将軍
が政治イデオロギー対立のもっと深部にある人間性を呼び覚ますための新聞発行をカトリ
ック教徒のフランス・セダ農園相にアドバイスしたのがコンパス紙の発端であり、大臣は
自分の親しいメディア業界者P.K.OjongとJakob Oetamaにこの話を持ちかけてコンパス紙
を誕生させた。

ペトルス・カニシウス・オヨンは歐陽 炳坤(Auw Jong Peng-Koen)の中国名を持つプラナ
カンでそれまでスターウイークリーの編集長を務めていた。ヤコブ・ウタマはカトリック
教団が発行する週刊誌Penaburの記者だった。オヨンは大臣の話を即座に了承し、ヤコブ
を初代編集長に任じて新聞発行準備に取り掛かったのである。


1960年代に激しくなったインドネシアの左傾化は国民生活にまで干渉の網を広げて、
拳豪冒険小説は反革命的であるという烙印を捺すようになった。その時代に反革命的とい
う言葉は反国家社会や非国民といった意味で使われ、国民に著しい恐怖をもたらす言葉に
なっていた。作家も読者も出版社もその恐怖から遠ざかろうとしためにブームはおのずと
下火になる道をたどった。

G30S政変が一段落すると、チュリタシラッは不死鳥のように復活した。ポケットサイ
ズで印刷された薄いページ数のシリーズはたいてい20から60回くらいの分冊で作られ、
中には70回などという長いシリーズになるものもあった。全分冊を通して積み重ねると
1メートルを超えるようなものまで出現したのである。

出版社はそのような分冊を毎月1〜2冊から4〜5冊くらい発行し、1年かけて完読する
ようなスタイルを執っていた。発行部数は各分冊が1万から1万5千くらいだったそうだ。
いまでもそれらのシリーズ小説を新聞雑誌売場や貸本屋あるいは古本屋で目にすることが
できる。

香港や台湾のアクション映画ブームが始まると、書物と映画が相互に影響し合ってインド
ネシア庶民のエンタメ分野の中にチュリタシラッはしっかりと根を下ろした。[ 続く ]