「クンタオ(3)」(2023年11月22日)

1980年代になると中国語の拳豪冒険小説をたくさんの出版社がインドネシア語に翻訳
して発行した。Pang Coan Thian Lieや67冊のシリーズになったSia Thiauw Eng Hiang、
あるいはSin Tiauw Hiap Lu、To Liong Toなどが代表的なヒット作品だ。

大勢の読者が物語の中に挿入された中国語を覚えて日常生活の中で使うようになった。
suhu  guru dalam dunia persilatan
suheng  saudara seperguruan
sumoy  saudara perempuan seperguruan
lwekang  tenaga dalam
kangouw  persilatan
piebu  pertandingan
インドネシア人プリブミのチュリタシラッ愛読者たちはほとんどだれもが、中国で有力な
拳道流派はShao Lin Sie少林寺とBu Tong Pai武当派であることをよく知っていた。


インドネシアで、チュリタシラッ作家として最大級の英名を馳せたのが1994年7月に
急逝したKho Ping Hoo許平和だ。1926年8月17日に中部ジャワ州スラゲンでプラナ
カン家庭に生まれたかれは30年間に120のフィクション小説作品を世に送った。かれ
は中国語の読み書きがまったくできなかったそうだ。アスマラマン・スコワティというイ
ンドネシア名を持つコー・ピンホーは香港や台湾のアクション映画から小説のヒントをい
ろいろ得たと言われている。かれの愛読者は160万人に達するという説もある。

インドネシア人プリブミが中国文化を題材にしたチュリタシラッを好むのはどうしてか?
歴史家でジャーナリストのアルウィ・シャハブ氏の分析によれば、チュリタシラッの多く
は歴史を盛り込んで物語られていることに加えて、人生哲学が語られ、さらに男女の愛と
武闘が描かれている点にある。正義と悪が闘い、最後に必ず正義が勝利を得るのである。
おまけに読者は作者が描く舞台の中に思いを馳せ、心を酔わせたままファンタジーの中に
吸い込まれて溶け込んで行くのだ。


中国で拳道を身に着けたひとびとが昔からたくさん南洋にやってきた。南洋華僑という言
葉で括られている東南アジアへの華人渡海者の中に、この特殊技術のマスターたちも混じ
っていたのである。ジャワ島にやってきてその地の土になった拳豪も少なからずいる。か
れらの多くは華人コミュニティの中で生涯を終えたが、かれらの作った拳道武館は時代を
経てプリブミのイルムシラッと溶け合い、独自なものへと発展した。

クンタオの達人たちは武闘医術の知識と実践がなしには済まなかった。打ち身・捻挫・骨
折といった怪我の治療は、武闘の中での筋骨・血管・呼吸器などの応用と共に、道を極め
るための必須知識になった。その知識を道の外にいるひとびとに使えばいっぱしの医者に
なれるのである。こうして拳豪たちの多くが拳道武館の師匠と中国医という二足のわらじ
を履く人生を送った。ジャワ島に名を残した華人拳豪のほとんどは、プリブミの中のイル
ムシラッに興味を持たないひとびとにとっての有能なシンセ(sinse/sinshe 先生=中国医)
だったのである。

19世紀後半の時代にスマランに住んでいた拳豪のひとりに、Be Kang Pienという人物が
いる。スマランの華人コミュニティを統率していたマヨールチナのBe Biauw Tjoanが行っ
ていたアヘン商売の用心棒の仕事をしていた。[ 続く ]