「ヌサンタラのコーヒー(22)」(2023年11月21日)

オランダのレイデンから古都バンドンに留学に来たアンネリーケ、リセッテ、エステルの
三人はある休日にインドネシア人の学生仲間を誘って街中を観光した後、ブラガ通りに向
かった。Let's have a cup of Java. ジャヴァがジャワコーヒーを意味しているのは付き
添っていた学生仲間にもすぐに判った。

ちなみに、オランダの都市Leidenがライデンとひんぱんにカタカナ書きされるのは英語=
ドイツ語発音の音写だろう。オランダ人自身はオランダ語でレイデンと発音しているよう
に聞こえる。どちらが正しいというようなものでもないだろうが、要は文脈次第というこ
とではあるまいか。

三人のオランダ娘たちは毎日コーヒーを飲む。紅茶が日々の飲み物になっているヨーロッ
パの島国を別にして、大陸側のひとたちにとってはコーヒーが日常飲料になっているにち
がいない。コーヒーのない生活は塩の効いていない料理のようなものなのだろう。

かの女たちは決してインドネシアに来て初めてジャワコーヒーに出会ったわけではない。
ジャワコーヒーは何世紀も昔からオランダ人がジャワ島の山野に植えた。内陸部の高原に
農園が作られ、収穫されたものがダンデルス総督の作った大郵便道路を通って港に運ばれ、
オランダに向けてキナ・紅茶・砂糖・ゴムなどと一緒に船積みされた。


「ジャワ島はコーヒー栽培に最適な土地だ。良いコーヒーが育つための自然環境が、降雨
量や土地の酸性度などの面で理想的なものになっており、ラテンアメリカやアフリカを断
然しのいでいる。」バンドンに1930年に設立されたアロマコーヒー工場のオーナー、
ウィディヤプラタマ氏はジャワコーヒーの美味しさについてそう物語る。

バンドンのレンバン地区はかつてコーヒー農園が広がっていた場所だ。しかし都市の発展
がそこを人間の居住地区に変え、美味しいコーヒーを産んできた木々はその地区から消え
てしまった。ウィディヤはそれをとても残念がる。

インドネシア有数のコーヒー生産会社PT Sari Coffee Indonesiaの広報課長は、かつてジ
ャワコーヒーのプロモーションを同社の国際ネットワークを通じて行ったことがあると語
った。「たいへんよい評価を得た。品質が優れていることを大勢が認めた。ところがビジ
ネスベースで成功させようとしても、量の供給が続かない。結局その企画は足踏みしてし
まった。美味しいジャワコーヒーをどのようにビジネス化して行くか、その道をまだ模索
中ですよ。」


ジャワ島全般を眺めた話をするなら、ジャワコーヒーの発端はファン・デン・ボシュ総督
が行った栽培制度だったということになる。全農民に対してそれぞれの耕作用地の5分の
1でコーヒー・サトウキビ・藍・紅茶・タバコといったヨーロッパ向け商品作物を栽培す
るように法令で義務付けたのが栽培制度だった。

オランダ人はそれを単にCultuurstelselとしか呼ばなかったが、法令で定めたのだからも
ちろん強制力を持っている。その歴史的制度をインドネシア人はsistem tanamという直訳
で表現せず、強制という言葉をそこに加えてsistem tanam paksaという、被害者の痛恨を
表明する文学的ないろどりを添えた。

この歴史事実としての制度はたいていの国で、オランダ語を直訳したものが標準名称とさ
れたようだ。英語でも単にThe Cultivation Systemとなっている。マレーシアはインドネ
シア語に合わせたのだが、日本だけがインドネシア人の心情を汲み取って強制の語を使っ
たようで、日本人の親インドネシアの体質がそこに浮き彫りになっている気配が感じられ
る。ジャカルタバンドン高速鉄道の一件でインドネシアに対するラブコールが嫌悪や憎悪
に変化したひとびとは、「同情するなどもうやめだッ!」と言ってそのうちにこの強制の
語を外すようになるかもしれない。それとも悪態をついて加害者の位置に自分の視点を移
すだけだろうか。わたしが強制の語をときどき外して使うのは、そんなこととは関係がな
い。[ 続く ]