「ヌサンタラのコーヒー(23)」(2023年11月22日)

ともあれ、オランダ人の支配下にジャワ島が一丸となって国際市場に向けた栽培〜収穫〜
輸送〜加工〜輸出という流れを実現させていたことを、現代人の中にも驚異の目で眺めて
いるひとびとがいる。もちろんその流れの合間合間に腐敗プリブミ支配者や強欲オランダ
人の暗躍がちらほらと影を落とし、あるいは激しい貧困化が民衆を襲ったことがあったに
せよ、プログラムのメインストリームはオランダ人支配者がしっかりと握って操縦してい
たから、その成果が明白に得られていた。

独立共和国になった現代のジャワ島にそのときの状況が再現されることを望む人は少なく
ないように見えるものの、かれら自身の面持ちも心なしか悲観的に見える。オランダ人の
支配下では行えていたというのに、同胞が旗を振るようになったらなんで同じような成果
が得られなくなったのか、と。


イギリス人アルフレッド・ラッセル・ウォレスはマレー諸島でほぼ8年間かけて探検と標
本採集の旅を行った。その間かれがジャワ島に滞在したのはたったの3ヵ月半だった。1
861年7月18日にスラバヤに上陸し、モジョクルトに近いウォノサラムで採集活動を
行った。アルジュナ山麓にあるウォノサラムはコーヒー農園の村だ。だが珍しい鳥はたい
しておらず、野生の孔雀が採集された。孔雀の肉は七面鳥のような柔らかさとデリカシー
があったそうだ。

そのあとスラバヤから蒸気船でバタヴィアに移動し、バタヴィア〜バイテンゾルフ〜グデ
パンラゴ山地を巡ってから、11月1日にシンガポール行きの船でバタヴィアからバンカ
島に向かった。世界でもっとも素晴らしい熱帯の島だという賛辞をかれはジャワ島に与え
た。「熱帯地方の全域でもっとも肥沃、もっとも稠密、そしてもっとも美しい島。たくさ
んの火山がジャワ島に肥沃な土を与えた。」

ウォレスはオランダ東インド政庁の統治スタイルを称賛した。昔からの原住民統治体制を
そのまま残し、プリブミの県令や村長の統治下に民衆の暮らしが営まれていて、原住民の
ライフスタイルが伝統となって続けられ、その中でコーヒー紅茶の農園経営が行われてい
る。自然の美しさ、そしてチャンディ遺跡の美しさはインドのものを超えており、ラテン
アメリカの古代遺跡をもしのいでいる。

ウォレスを感動させたジャワ島の美しさはオランダ東インド政庁も認識していたものであ
り、政庁は観光政策の中でジャワ島への観光誘致を最初のプロジェクトにした。しかしジ
ャワ島の開発によって当時の欧米人が求めていたプリミティヴ観光の要素が希薄になって
きたため、政庁は観光政策の焦点をジャワ島からバリ島に切り替えたという歴史がある。


ヌサンタラコーヒー栽培史の初期に登場する西ジャワ州タタルスンダ地方では、高原部で
収穫されたコーヒー豆がチタルム川を通ってバタヴィア港に運ばれた。VOCの時代にコ
ーヒー栽培が開始されたころ、内陸部の産地の要所要所に倉庫が設けられて、収穫された
コーヒー豆がそこで秤量された。収穫品はそこから水牛の背に積まれたり、場合によって
は人間が背負って行列を作り、いくつか分散して設けられた大型倉庫に狭い道を経由して
集められた。その時代に馬車や牛車が通れる道はまだなかったのだ。すべての収穫は最終
的にチカオバンドンの積出し倉庫に集まってきた。

現在のプルワカルタ県チカオバンドン村はジャティルフル湖のすぐ近くにある。そこに設
けられた大型倉庫からコーヒーは船に積み込まれてチタルム川を下り、ブカシ北部のムア
ラグンボンの河口に達してから海に出て海上をバタヴィアに向かった。[ 続く ]