「クンタオ(4)」(2023年11月23日)

ベー・ビアウチョアンは新客(インドネシア語のsingkekは中国からインドネシアに来た華
人一世)が作った二世の子供で、中国からジャワ島にやってきた父親とジャワの華人系プ
ラナカン娘が結婚して産んだ長男だった。ベーとは「馬」姓の福建語発音だ。かれはスマ
ラン華人社会の大物タン家の娘と結婚して上流階層の仲間入りをし、1846年にレッナ
ンチナ、1854年にカピタンチナ、1862年にマヨールチナの座に就いた。

1860年代にアヘン公認販売人のライセンスを政庁から得たベー・ビアウチョアンがア
ヘンビジネスを盛んに行っていたところ、1863年になってそのビジネスの中に非合法
活動があることを摘発されてビジネスライセンスを抹消され、罰金を科された上にマヨー
ルチナの座をはく奪された。

植民地政庁最高裁判所への再審請求を続けた結果、1872年になって先に下された判決
が取り消され、かれはアヘンビジネスを再開するとともにマヨールチナの座に返り咲いた。
そして1904年に没するまで、マヨールとしてスマランの華人社会に君臨した。


ベー・ビアウチョアンがジャワ島の中部地方各地に設けたアヘン販売代理人にアヘンを送
り、そしてその販売代金を送って来させるために、その時代はすべて自分が使用人を使っ
て行うのが当然のことになっていた。鉄道はまだどこにも走っておらず、ジャワ島最初の
鉄道公共輸送機関が稼働したのは1867年で、スマラン〜タングン間26キロを蒸気機
関車が走った。

ダンデルス総督が作らせた大郵便道路とその支流の街道を往来する郵便馬車は走っていて
も、目的場所と郵便馬車駅の距離が離れていれば最初から自分の馬車を使って走り通すほ
うがはるかに安全で早い。そう、その時代は至るところに強盗団が出没し、金目の品や現
金をくわえて逃げる泥棒もたくさんいたのだから。

だからスマランのマヨールチナの馬車がアヘンを積んでマグランMagelang、アンバラワ
Ambarawa、ルンバンRembang、クディリKediri、トゥルンガグンTulungagung、クドゥス
Kudus、バグレンBagelenなどの町に走り、帰りに販売代金を抱えた販売代理人の会計係や
番頭が同行してスマランに戻るのが普通の姿になっていたのである。


アヘン馬車の用心棒の仕事に就いたベー・カンピンはスマラン市内のマヨールの持ち家の
ひとつに他の使用人たちと一緒に住んでいた。大柄ではないががっしりした体躯をしてい
て、クンタオの実力も高く、また高慢な性格でなかったので一緒に住んでいる同僚たちと
も折り合いが良く、みんながカンピンからクンタオの手ほどきを受けていた。拳豪の多く
がそうであるように、カンピンも妻帯せず家族を持たなかった。

アヘン馬車用心棒の仕事はひんぱんにある。そのために用心棒が何人も雇われ、だれもが
ひと月に何度もあちこちの目的地に向かう馬車に乗った。カンピンはバグレンに毎月一回
馬車の旅をした。スマランとバグレンの往復はヨグヤカルタを経由すれば便利で楽だった
のだが、ヨグヤスルタン王国領に入るのに手続きが必要で、入境するのにrekest(申請)
を出して翌日下される許可を得なければならず、それなしで領内に入ると逮捕されて一晩
監獄入りさせられたから、バグレンに往復するときはヨグヤカルタを避けてクトアルジョ
〜プルウォレジョ〜マグランというルートを通った。そのために旅はたいていマグランで
一泊する二日間の行程になった。


あるとき、カンピンの護衛するアヘン馬車がバグレンの代理人にアヘンを届けた後、スマ
ランへの戻り便に代理人の会計係が9千フローリンの現金を抱えて同行した。アヘン馬車
がいつも御者と助手そしてカンピンの三人だけで往復するのがこの会計係には心細かった
ことから、現金をスマランに届けるときには二三人の仲間を誘って馬車に乗るのが毎回の
振舞いだった。ところがその日にかぎって、仲間たちに用事ができてひとりも付き合って
くれる者がいない。会計係はしかたなくひとりで大金のお守をすることにした。

馬車客室の座席の下は頑丈な金庫になっていて、鉄の板で囲まれている上に大きい錠前で
閉じられるようになっている。大量の銀貨がそこに隠された。錠前の鍵は会計係が持った。
更に道中の飲食物が客室内にたくさん持ち込まれた。そのルートが食堂や茶店などのまっ
たくない地域を通るためだ。出発の用意が整ったので会計係は御者のマルトに出発を命じ
た。マルトは2頭の馬に鞭をふるった。馬車はクトアルジョに向かう田舎道を進む。ひど
い田舎道は乾季にすさまじい土埃を立て、雨季にはぬかるみを作って車輪が深い穴に落ち
ると車軸まで泥の中に沈んだ。[ 続く ]