「ヌサンタラのコーヒー(29)」(2023年11月30日)

同じ方針はリゾート本館にも貫かれている。オランダ人農園管理人の住んだ住居が外見を
そのまま残して本館にされ、その周囲にジョグロとリマサンが特徴付けている古いジャワ
風建築の建物が繋げられている。

オランダ時代のレシデン邸を模して建てられた管理人邸はネオクラシック様式の太い円柱
がファサードを特徴付けており、また周囲を囲むジャワ風邸宅は古い民家を移転させたも
ので、太いチークの柱が古き良き時代を感じさせてくれる。農園管理人邸がいつ建てられ
たのかについては、1856年と述べている記事と1828年と書いてある記事が併存し
ている。

この邸宅に最後に住んだのはコーヒー農園の持ち主だったオランダ人グスタフ・ファン・
デル・スヴァンだ。かれは1964年までそこを居所にしていた。かれが使った机・書棚
・タンス・安楽椅子、更には金属製の窓飾りや他の室内装飾などが往時のままに本館の内
部を彩っていて、香が焚かれ、香花の薫りが屋内に漂っているのと併せて、来場客をオラ
ンダ時代の農園主の暮らしの中に誘ってくれる。


ロサリコーヒー園はその昔、オランダ東インド政庁が開いたコーヒー農園であり、カラン
レジョ農園と呼ばれていた。政庁の役人だったグスタフ・ファン・デル・スヴァンが19
22年にその農園を政庁から買い取った。それから40年以上が経過して、その間日本軍
政期や独立革命期を中に挟んだために大した経済効果が発揮されないままグスタフは老齢
になり、1964年に農園を売却した。購入したのはサラティガに住む退役軍人チョクロ
プラウィロ大佐だった。ところが、大佐がコーヒー生産事業を行なおうとしたものの経費
がかかりすぎることが明らかになって、大佐も農園事業に本腰が入らないまま1988年
に世を去った。大佐夫人が農園売却を打ち出したのが1991年で、それをイタリア女性
のガブリエラ・テッジアが1995年に購入した。

建築デザイナーのガブリエラ・テッジアはジャワコーヒーに魅せられてジャワ文化を愛す
るようになった。ジャワ島のマグラン一帯を歩き回っていた時期にガブリエラが自分でそ
の農園を見つけたのだ。愛称ギャビーと呼ばれていたガブリエラは自分の夢を実現するこ
とに邁進した。ジャワコーヒーの名が世界を揺るがせていたあの時代をこのジャワの一画
に再現させたい。高級リゾートをここに設けて、現代人にオランダ時代のジャワの農園主
の生活を味わってもらうことにしよう。ギャビーはロサリ村のコーヒー農園をアグロ観光
と高級宿泊施設を備えた観光施設に作り上げた。

ファン・デル・スヴァンが住んでいた家を改造してリゾートの本館にし、クドゥスの伝統
家屋4軒を分解してロサリに移し、それを最高級ヴィラに改造した。宿泊施設は5星級の
レベルを満たすものにし、しかしモダンな印象は避けて古き良き豪華さの雰囲気ですべて
を覆った。古いジャワの民家を改造した最大のヴィラは寝室が5部屋あって10人が宿泊
できるようになっている。現代人にとって、そんな古いジャワの民家に足を踏み入れる機
会はめったに得られないものにちがいあるまい。


ギャビーはこのリゾートの運営にいわゆるプロフェッショナルを雇用して使うのでなく、
地域一帯の住民をプロフェッショナルにする方針でリゾートオープンの準備を進めた。
たとえばコーヒー農園見学ツアーでは、農園の真っただ中に設けられているワルンの建物
でロサリコーヒーが振舞われると共にコーヒー作りの実演が行われ、ガイドが説明する。

コーヒーを好まない客のためにジャワのジャムゥ売りお姉さんが客の求めに応じてジャム
ゥを供してくれる。それらを行なっているひとびとのすべてが地元民なのである。ギャビ
ーはこのリゾートをオープンするための準備にたいへん長い歳月を費やしたのだった。グ
ランドオープニングは2004年12月に行われた。[ 続く ]