「ヌサンタラのコーヒー(30)」(2023年12月01日)

レンチョ村プララガン部落はムラピ山とムルバブ山を結ぶ高地にある。標高1千6百メー
トルの高所にあるこの山奥の部落はボヨラリ県セロ郡に属していて、ヨグヤカルタから乗
合バスで向かうとおよそ2時間の旅になる。この部落でモダンカフェスタンダードのコー
ヒー豆が生産されているのだ。

集落に生えているアラビカ種のコーヒー木は人間が一切世話をせず、自然のまま生育する
のに任せている。住民の家の庭や畑に生えているコーヒー木からは赤い実だけが葉や枝や
茎の付いていない状態で摘み取られる。ここで行われているプロセスは一風変わったもの
で、収穫された実をそのまま乾燥させるのだ。そうすることによって果肉の養分が豆に浸
透し、フルーティな甘味と香りを持つ豆になるそうだ。

そのようにして作られるレンチョlencohコーヒーには、果肉を落としてからそのまま販売
されるものと、更に鍋で煎ってから販売されるものの二種類がある。煎られる場合、あま
り深く煎らないように最善の注意が払われる。煎りすぎれば豆に染み込んだフルーティさ
が台無しになってしまうからだ。

レンチョコーヒーを世の中に売り出すようになってから、集落の中や近辺に950本の苗
が植えられたそうだ。それらが育てば、レンチョコーヒーの生産量は大幅にアップするに
違いあるまい。

プララガン部落の歴史は15世紀までさかのぼることができる。住民は元々仏教徒であり、
ジャワ島平地部がイスラム化したあとまで仏教徒の集落だったそうだが、結局ひとびとは
イスラム教徒に変わった。

ムラピ山側の斜面は1930年代の噴火によって荒れた凹凸の激しい地形に変化した。眺
めは勇壮で美しくても、崩落の危険に満ちている。そのため住民はそこにアカシアとシナ
モンの木を植えて土砂崩れを抑制した。その斜面を歩く必要があるとき、それらの木々に
伝わって進めば土砂とともに千尋の谷底に落下するリスクがミニマイズされる。


中部ジャワの州都スマランの東側は北のジャワ海に向かって張り出した太い半島型になっ
ていて、半島の中央に標高1,002メートルのMuria山がある。ムリア山を南に下るとKudus
の町だ。クドゥスのムリア山寄り山麓部では昔からkopi ireng Muriaの生産が地場産業の
一つに数えられていた。

イレンとはジャワ語で黒を意味するからコピイレンを英語に翻訳するとblack coffeeにな
るわけだが、英語のブラックコフィとジャワ人にとってのコピイレンは物が違っているか
ら、ジャワ人を相手にしてその翻訳を使うのはやめたほうがいいとわたしは思う。


1895年、オランダ東インド政庁はパティ県グンボン郡ジョロンにコーヒー農園を設け
た。この農園はムリア山稜を広く覆って、パティ県グンボン郡からクドゥス県ダウェ郡に
またがるものになった。独立インドネシア共和国がイリアン解放戦争の関連でオランダ資
産国有化を行なったとき、グンボン郡にある農園とダウェ郡に属す農園が分割された。後
にヌサンタラ農園会社が作られて全国の農園の体系化が行われるようになるのだが、その
最初は地元行政が自分の行政区画内の土地にある資産の責任を負う形で行われたためにそ
んな結果になった。

グンボン郡側の農園527Haは最終的にPTPN IX社の資産に落ち着いて、現在は同社の経
営下に置かれている一方、ダウェ郡側の農園は地元民の運営下に長期間置かれたことから
PTPN IX社の資産にならなかった。クドゥス県庁データによれば、民衆コーヒー農園はチ
ョロ、ジャパン、トウルナディの各村に広がっていて、総面積550Haのうちの440Ha
でロブスタ種、110Haでアラビカ種が栽培されている。それら三か村の6百農家がそれ
ぞれコーヒー畑のオーナーになり、伝統的な手法でコーヒー栽培を行なっている。[ 続く ]