「クンタオ(10)」(2023年12月01日)

明朝自分は馬車の護衛の仕事でクドゥスからパティに向かい、その後ラスムとルンバンを
回ってスマランに帰るから、その準備のために自分はこれで失礼する、とカンピンがゴア
ンヒアンの一家にいとまを告げると、ゴアンヒアンはお礼の気持ちとして4百フローリン
の入った封筒をカンピンに差し出した。しかしカンピンをそれを決して受け取ろうとせず、
自分は独り身であり、しかも旅をするのが仕事だから、そんな人間がこんな大金を持った
ら金の保管に困ってしまうと説明した。自分はまだ大金を必要としていないから、この金
は預かっておいていただき、自分が中国に帰るときに頂戴したいと言うとゴアンヒアンも
納得した。

それ以来ふたりは親交を深め、ゴアンヒアンが商用でスマランへ行くと必ずカンピンの寮
に立ち寄り、いろいろな話をした。ゴアンヒアンは毎回衣服や食べ物などさまざまな手土
産を持って行ってカンピンに渡したから、カンピンは閉口したという話だ。5月15日の
龍王の祭日には粽を山のように贈り、8月15日の中秋節には月餅を山のように贈り、陰
暦正月には絹の着物をたくさん贈ってきたから、カンピンは何度も何度もそれをやめるよ
うにゴアンヒアンを説得した。

オランダ東インド政庁はアヘンの公認販売を1910年に廃止した。それを機に、ベー・
カンピンはスマランを後にして中国に帰ったそうだ。


ベー・カンピンと同時代のひとに、Louw Djing Tieがいる。Louw Djeng Tieと書く人もい
る。ロウ・ジンティは1855年に福建省海澄県の貧困家庭に次男として生まれた。長男
とは年齢が離れていて、長男が成人したときジンティはまだ6歳だった。その下に妹がい
た。ジンティは小さいころから度胸があって負けず嫌いだったので、村の子供らと毎日喧
嘩ばかりしていた。

長兄が旅に出た後、しばらくして両親が相次いで没したため、ジンティと妹のジンヒアン
は親戚に引き取られたが、ジンティの家よりもっと貧しいその親戚の家でふたりはたいへ
んな苦労を味わった。旅に出ていた長兄が戻って来て弟妹を引き取り、ふたりにクンタオ
を教えたものの、長兄には教えきれなかったためにジンティを河南省嵩山少林寺に入れて
修行させた。

6年間の修行で少林拳の優れた生徒として認められたジンティは、修行を終えると故郷の
両親の家に戻り、妹とふたりで農業を始めた。村で一二を競うクンタオの達人と言われ、
希望する村人にクンタオを教えた。もちろん妹にもクンタオをしっかり仕込んだから、ジ
ンヒアンもクンタオの達人に育った。しかしジンティの胸の奥には、クンタオの道をもっ
と深めたいという希望が燃えていた。


ジンティはクンタオの師を探し、カオサンの山頂にある寺の住職が達人であるという情報
を得たので、かれは妹と別れてカオサンに向かった。カオサン寺には20人ほどの学僧が
住職の指導のもとに暮らしており、ジンティはそこに迎え入れられて弟子のひとりになる
ことができた。

僧侶になりたいのでなくクンタオの道を極めたいので師事したいと願い出たジンティを住
職のビアウチエンは気に入ったらしく、「ここは僧侶になるための修行の場であり、そう
でない人間がここで暮らすのを認めたことはなかったが・・・」と言ってジンティに特別
の許可を与えた。その結果、学僧たちの中に剃髪していない者がひとり混じることになっ
たものの、ジンティは弟子仲間たちと仲良く修行の日々を送った。仏僧になるための生活
がどのようなものであるのかを少林寺ですでに経験済みだったかれは、仲間の弟子たちの
学習に支障をもたらさないためにどうすればよいのかを十二分に心得ていた。

ジンティはカオサン寺で6年間学んだ。ビアウチエンが期限を定めない旅に出るとき、師
はジンティに別の師カン・トースーを紹介してくれたので、師匠を換えた。そしてカン・
トースーの下で7年間修行を続け、もう教えることがないという折り紙をもらってジンテ
ィの修業時代は幕を閉じた。これからは自分で金を稼いで生きて行かなければならない。
既に身に着けた高い技術で世の中を渡って行くことになる。クンタオと医術、そして手品
という三つの分野でジンティは優れた腕を発揮した。[ 続く ]