「ヌサンタラのコーヒー(31)」(2023年12月04日)

その巨大な民衆コーヒー農園が粉末コーヒーを生産する家内産業を生み出した。1990
年代になってカリウグ郡ジュタッ村に一時代を画した生産者が現れたのである。二軒の生
産者がクドゥス、ジュパラ、パティ、ルンバン、ブローラなど中部ジャワ州東部北岸地域
の市場を席捲した。その粉末コーヒーをひとびとはコピイレンムリアと呼んだ。略してコ
ピイレンとも呼ばれた。

コピイレンは一回で飲み切るサシェットタイプで生産されている。粉末コーヒー5グラム
と砂糖26グラムを混ぜて小型プラ袋に密封し、一箱に10サシェットを入れて7千ルピ
アで販売されている。


ところがインドネシアにコーヒーブームが興り、大中の全国規模メーカーが生まれてさま
ざまな製品を市場に出すようになった。その製品の中にサシェットタイプのものももちろ
ん含まれていた。ワルンでコーヒーを飲みに来る客に使われ、観光地の道端や駐車場で熱
湯の入った魔法瓶だけを頼りにコーヒーの作り売りをする道端商人に使われ、家庭やオフ
ィスでも熱湯とカップさえあればすぐに作れるサシェットに入ったコーヒーは大いに売れ
た。

インドネシアでそのインスタント性が大いにもてはやされたサシェットタイプのコーヒー
は、インスタントコーヒーでなくてコーヒーの粉末が入っているものが標準であることを
念押ししておこう。そう、インドネシア人はそんなスタイルでkopi tubrukを飲んでいる
のである。コピトゥブルッがインドネシアの国民的コーヒー飲用スタイルであるというセ
リフはそのサシェットコーヒーが十二分に説明しているようにわたしには思われる。


さて、クドゥスのコピイレンは全国規模メーカーが出すサシェットに押されて販売が縮小
し始めたのだ。ジュタッ村に登場した生産者の一軒は既に事業をやめ、今ではMentariブ
ランドのコピイレンムリアだけが細々と生産を続けている。最盛期には2〜3百キロの粉
末コーヒーが毎日消費されていたというのに、昨今ではせいぜい1百キロしか使われない
そうだ。

ムンタリブランドのコピイレンサシェット事業を開始したスディルマン氏はそれまでコー
ヒー豆の仲買人をしていた。地域のコーヒー生産農家を回って収穫を買い取る仕事だ。そ
のころまだ30歳代だったかれは、買い取ったロブスタ豆を薪のかまどで煎り、粉にして
近隣のワルンに卸してみた。それがよく売れた。

本腰を入れてその事業に取り組み、十年くらい黄金時代が続いた。しかし結局は、大型メ
ーカーのサシェットに市場を奪われて斜陽の道に追いやられてしまったのである。そうは
言っても、コピイレンの愛好者もまだまだいるのだから、事業を畳むまでにはならない。

コピイレン愛好者というのは、他のコーヒーをいくら飲んでもコピイレンを飲まないとコ
ーヒーを飲んだ気にならない、と言うほどのマニアックさを示すひとびとなのである。農
民・漁民・市場の商人・役所の下層職員たちがメインを占めているこの階層はワルンへ行
ってコーヒーを頼むときにコピイレンを指定する。だから村落部のワルンのほとんどがコ
ピイレンを常備している。

コピイレン愛好者の中には、さまざまな飲み方をして気に入った方式を常用するひともあ
る。塩を混ぜてみたり、鍋で煮込んでみたり、自分独特のスタイルを考え出して楽しむの
である。流行したおもしろい遊びとして、kopi leletと呼ばれるものがある。

コピイレンはコピトゥブルッだから、粉の滓がカップに残る。その滓を少しカップの受け
皿に取り、つまようじやマッチの軸などを使って紙巻タバコの表面に点々とくっつけるの
だ。中にはごっそり塗りたくるひともいる。できあがったらおもむろに火を点けてそのタ
バコを吸う。このコピレレッは既に伝統習慣となって、ムリア山半島部地帯の至るところ
で行われている。

ムリア山半島部のコーヒーワルンも今ではサロンになり、一般庶民の情報交換の場になっ
ている。ひとびとはそこへやってきてコピイレンを飲み、コピレレッのタバコを吸い、さ
まざまな話を交わして時間を送っている。[ 続く ]