「クンタオ(12)」(2023年12月05日)

南洋ではどこの都会にも同郷華人の組織があり、その町にやってきた同郷の新客は親類縁
者や知り合いがいなくても郷土人の互助会が持っている寮に無料で宿泊できた。広東人・
福建人・潮州人・海南人などの互助会も、たとえば潮州人がたくさん住んでいる町には潮
州人の互助会が複数作られたから、潮州人はその中の住みやすい寮を頼ればよかった。

またその時代、南洋に大勢の華人が移住して故郷との間で手紙のやり取りをしたのだが、
そんな時代に国際郵便などまだ存在していなかったから、たくさんの手紙を携えて船に乗
り中国の故郷と南洋を往復するメッセンジャー商売も盛んに行われた。このシステムとそ
れを行なう人間のことはcui-khekと呼ばれた。南洋に向かう船に乗るとたいていそのチュ
イケッが数人乗っていて、南洋の町々の最新情報をかれらから仕入れることができた。

ジンティはチュイケッのひとりからシンガポールの様子を詳しく教えてもらい、上陸した
あとすぐに福建人の寮を訪れてそこに滞在した。先にその町に住んで商売しているひとび
とは寮にやってきた新客を使用人にして仕事を与え、数年後に独立させるということをす
るのが普通で、同じ姓の新客に優先して助力を与えた。

シンガポールでできた知人が数日後にジンティを同姓の商店主に紹介してくれた。ジンテ
ィがクンタオ師だったために、その商店主はジンティに「店に泊まって他の使用人たちに
クンタオを教えてほしい。使用人たちがそう希望している。」と頼んだ。ジンティはその
店に移って仕事を手伝い、店の営業時間外に使用人たちにクンタオを教えた。

店の常連客の中にシンガポールに住んでいるムラユ人の高名なシラッの師がひとりいて、
真のクンタオの達人の実力を目の当たりにして驚嘆したという話が残っている。ジンティ
はしばらくシンガポールで暮らしていたが、ジャワからシンガポールに商用や遊びに来て
その店を訪れる華人たちが口をそろえて、ジャワの方がシンガポールよりも栄えていると
物語ったから、興味を引かれたジンティはジャワへ行くことにした。


シンガポールで世話になったひとびとに惜しまれて、ジンティはバタヴィア行きの船に乗
った。バタヴィアに着いてプチナンに向かい、知り合いの華人が経営しているトコティガ
地区の店で働くことになった。そこの主人が世話してくれたので、かれは店の雑貨品を担
いで売り歩く商売を行なってみたものの、店側にとっては経費倒れのビジネスにしかなら
なかった。しかしそんな商売のことよりも、ジンティにはバタヴィアというオランダ東イ
ンド最大の政治経済都市があまり性に合っていなかったようだ。バタヴィアが自分に合っ
ていないと感じたジンティはスマランに移ることにした。

スマランでロウ姓の先達の店でしばらく商売を手伝いながら過ごし、そのあとスマランか
ら20キロほど西にあるクンダルKendalに引っ越して塩魚の商売を始めた。新客華人のだ
れもがそうしたように、ジンティも日銭で生きる質素な暮らしをし、毎朝早く商売物を担
いでパサルへ行き、昼過ぎてから家に帰って翌日の商売の準備をするという日々をクンダ
ルで送った。

スマランよりはるかに小さいクンダルの華人コミュニティでジンティはすぐに知り合いを
増やし、けが人を武闘医術の腕前を使ってしばしば治療したから、塩魚売りはクンタオの
達人であるということで有名になった。医術の腕が良いという評価は、けが人の怪我が早
く治り、また怪我する前の状態にどこまで回復したかという結果を見てなされるものであ
り、ジンティが治療したけが人たちが治療の結果にたいへん満足していたことをそこから
うかがい知ることができる。[ 続く ]