「ヌサンタラのコーヒー(35)」(2023年12月08日) スメル山に背負われたブロモテンゲル山岳地帯から更に東に向かうとアルゴプロ山系がそ びえ立ち、そのもっと東にはラウン、スクル、ワトゥガンピッなどの山々が連なる山系が ある。峰々の東端にはブルーファイアで有名なイジェン火口があって、そこからジャワ島 の東の果てであるバニュワギの海岸部へと下って行くのだ。 ボンドウォソ県は標高3,088メートルのアルゴプロ山と3,332メートルのラウン山にはさま れた高原地帯だ。ボンドウォソのコーヒー栽培は1890年代にイジェンからラウンにか けての高原部で開始された。そこではアラビカ種が総面積1万1千Haの農園の全域を埋め た。 ファン・デン・ボシュが立案し実行した栽培制度の時代、東ジャワではブスキBesukiとマ ランのレシデン統治区がコーヒー栽培計画の中心になった。もちろんコーヒーだけが対象 にされたわけでもなく、ブスキレシデン区にはサトウキビ農園と12の製糖工場の設立な ども計画されている。マランレシデン区でも種々の農作物が取り上げられていて、その地 方の中で適材適所が実践されている。しかしブスキレシデン区の高い山々の上にコーヒー 農園が作られるようになったのはもう少し歳月が経過したあとのことだった。 イジェン=ラウン高原にはじめてコーヒー農園が作られたのは1890年代であり、ヘア ハート・ダフィッツ・ビルニがBlau山(オランダ語ブラウは青の意味)の高原を開発して 農園管理者になった。オランダ人が名付けたオランダ語の山名をプリブミはBlawanと呼ぶ ようになった。ブラウ山のコーヒー農園は後になって1927年に拡張され、標高9百メ ートルを超えるカリサッ=ジャンピッ地方にまで広がったのである。その歴史が反映され て、古い方の農園はKebun Blawan、新しい方はKebun Kalisat/Jampitと呼ばれている。 1955年に農園の名称がLandbouw Maatschappij Oud Djemberと変わったのも束の間、 1958年のオランダ資産国有化によってインドネシア共和国の資産にされた。1961 年に東ジャワ州が興したPPN Kesatuan Jawa Timur VIIが経営権を掌握し、その会社は1 963年にPNP XXVIと変わった。 そのあと、全国に散在するオランダ時代の諸農園を担当する国有農園会社の統合へと進ん だことから、カリサッ/ジャンピッ農園は1972年にPT Perkebunan XXVI (Persero)が 掌握し、さらにヌサンタラ農園会社のシステム化によって1996年以降、第12ヌサン タラ農園会社PTPN XIIの経営下に置かれて今日に至っている。 カリサッ村とジャンピッ村はボンドウォソ県スンポル郡にある。カリサッ村はボンドウォ ソの町からまっすぐ東方に40キロほどの距離にあり、またジャンピッ村はカリサッ村の 南に位置していて、どちらもイジェン高原の高所にある村だ。イジェンのブルーファイア 火口はバニュワギ県に属しているが、その火口の西端の線から西はボンドウォソ県に入る ため、その両村はボンドウォソ県のコーヒー生産を支える柱のひとつになっている。 PTPN XIIもこのコーヒー農園をアグロ観光地にした。総面積4千Haのカリサッ/ジャンピ ッコーヒー農園は海抜1,100から1,550メートルに達する高所にあって、いまでは一般市民 に高原リゾート観光をオファーするPerkebunan Kopi Arabika Kalisat Jampitという名の 観光施設が併設されている。涼しい農園内の散策やコーヒー加工プロセスの見学ばかりか、 花園での憩い、水泳、テニス、魚釣りなどの施設設備も用意されており、このリゾートで の滞在はたっぷり楽しめるにちがいない。[ 続く ]