「クンタオ(18)」(2023年12月13日)

インドネシア語ではこれをWayang Potehiと呼んでいる。wayangとだけ書かれると皮で作
られた薄板型の人形を使う影絵劇を指すのが普通だ。インドネシア語bayangの語源がサン
スクリット語のwayangであり、つまりインドネシア文化に影絵人形劇の芸能が生まれたと
き、ワヤンという言葉がそれを示すために使われた。影という側面に焦点が当てられた結
果をわれわれはその命名に見ることができるのではあるまいか。

ワヤン芸能はインドネシアのジャワ島で栄えたが、東南アジア諸国にも種々の形態の影絵
劇shadow playの伝統が作られていて、東南アジア全域に広まった影絵劇の源流はインド
だったことを指摘している論説が少なくない。ラマヤナやマハバラタの原作に影絵芝居を
示す言葉が使われているのだが、残念ながらワヤンという言葉ではなかった。ともあれ、
ジャワ人があれこれとヒントを得た上で自分たちで創造し完成させた影絵人形劇の名称に
サンスクリット語が使われた点にはうなずけるような気がする。

しかし現代インドネシア語におけるワヤンという言葉は影絵から離れて人形劇の方にシフ
トした趣があり、影を使わない木偶の人形芝居をwayang golekと呼び、人間が舞台で演じ
るものにはwayang orangの名を与えるまでになった。ワヤンの語は既にbayangの意味から
離れてしまい、演劇形式を指す術語として使われるようになったのである。劇を演じるの
に使われるモノの名前と一緒に述べられてその様式のカテゴリーを伝える形に変化したこ
とから、ワヤンゴレッやワヤンオランと同じように、影絵人形劇のワヤンはwayang kulit
が現在の標準術語になっている。


ジンティは連れとふたりでチョッジュワンの家の前を通り、屋敷の構造や間取りを推し量
った。表から見える位置にちょうどチョッジュワンが座っていたので、その顔もしっかり
と覚えた。そうしてからふたりがカンピンの寮に戻ると、ジンティの計画を知りたくてう
ずうずしていたひとびとは誰一人家に帰らずにジンティが戻って来るのを待っていた。ポ
テヒ人形もすでに買ってきてある。

計画を話してくれと迫る一座に対してジンティはまず、決して世間にこの話を漏らさない
ことを約束してくださいと求めた。自分は姿を隠してそれを行なうのだから、行なった人
間についての噂が世間に立てば、姿を隠して行った意味がなくなってしまう。一座は承服
して、決してだれにも話さないと誓った。ジンティは計画を語り始めた。


ジンティは手品の術を使う計画を話した。ただし手品は現場の状況とその変化に対応して
千変万化させなければ失敗するから、おおよその骨組みは計画しても詳細は行き当たりば
ったりにならざるをえない。だから詳しく計画を話したところでその通り自分が実行しな
いことも大いにありうるから、あまり意味がない。

とはいっても、これでは皆さんのご期待に添わないだろうから、わたしの手品の術をお目
にかけましょう、と言ってから両手で顔を抑え、なにやら呪文を唱えた。

「それでは今からちょっとした手品を皆さんにお目にかけます。」とかれは言い、机の上
に置かれている十個あまりの湯呑みをひとつひとつ空中に放り上げた。ところがその全部
が空中で姿を消した。続いて机の上にあったヤカン、たらい、手ぬぐいなども同じ道をた
どった。机の上は無一物になった。さらに一座のひとびとが身に着けてきた帽子・履物・
襟巻きや羽織るものなどを手に取って空中に放り上げる。すべてが姿を消した。一座のひ
とびとをキツネにつままれたような思いが包んだ。一座の様子を見て取ったジンティは手
を後ろに回し、空中のどこかから落ちてきたさっきの品物をひとつずつ受け取って、机の
上に並べた。

次にかれは机の上の湯呑みを全部積み重ね、一枚の白い布を取り出すと積み重なった湯飲
みを上から完全に覆った。そして湯飲みの山を覆っている白い布を上から押さえはじめた
のだ。湯飲みの山は少しずつ崩れて高さが低くなっていく。そしてついに白い布は机の上
に広がった。積み重ねられていたはずの湯飲みはかけらも残さず消えている。

机の上に広がっている白い布の中心をジンティは指でつまみ、今度はすこしずつ上に引き
上げ始めた。布がゆっくりと上がって行く分だけ、布の内側に湯呑みが戻って来た感じが
する。白い布が元の高さまで引き上げられると、ジンティは一気にその布をめくった。積
み重ねられた湯呑みがそこにあった。[ 続く ]