「ヌサンタラのコーヒー(38)」(2023年12月13日)

インドネシアの伝統的なコーヒーの淹れ方にkopi tubrukというものがある。これはカッ
プの中に粉末コーヒーと熱湯を一緒に入れてかき混ぜ、粉が沈殿してから上澄みを飲むス
タイルのコーヒーだ。コーヒーの粉を濾過しないので滓が水分の中に混じり、飲む者の口
に入ることになる。甘味好きのインドネシア人だから粉末コーヒーに砂糖が加えられるの
が標準のスタイルだが、砂糖ありでもなしでもそれがコピトゥブルッであるのは同じだと
わたしは定義付けている。

数人分をその淹れ方でコーヒーポットやコーヒーサーバーに作り、その上澄みを数個のカ
ップに分配する方法で行ったとき、それをコピトゥブルッと呼ぶのに異議を唱えるインド
ネシア人がいるかもしれない。多分その名称が持っている語感になじまないからだろうと
わたしは思うのだが、原理そのものを比較するなら何の違いもないようにわたしには感じ
られる。

あるクダイコピ店主の話によれば、おいしいコピトゥブルッの淹れかたはカップにコーヒ
ー粉末10グラムと90〜95℃の熱湯を入れて作るのだそうだ。水が沸騰し始めたころに
火を止めるのが適切なタイミングの目安になる。かれはまた、粉と砂糖を一緒に入れず、
砂糖は粉からコーヒーエキスがしっかり溶け出してから入れるのが適切な作法だと主張し
た。その論理的な意見にわたしは感心した。

コーヒー粉末の挽き方は細かいほうがよいのではないかとわたしは考えている。というの
もわたしの経験では、美味しいコピトゥブルッは飲んだあとに粉が泥状になっているのが
普通だったからだ。そのためにわたしの家では、コピトゥブルッに泥コーヒーという名前
を献呈した。その話は上に書いた。


インドネシア語tubrukは「ぶつかる・衝突する」と訳されることが多いが、「飛び掛かる」
の意味が第一義だ。飛び掛かって行って自分の身体を相手にぶつけるのである。大好きな
おじさんがやって来るのを見た幼児がおじさん目がけて走り出し、おじさんの胸に飛び込
んで行くような行為がトゥブルッなのだ。

「潰して細かくする」あるいは「叩いたり潰したりして殻を外し、きれいにする」という
語義が二番目にあり、コピトゥブルッというネーミングは粉末コーヒーと熱湯がカップの
中でぶつかり合うイメージを形容して行われたものではないかと言う説があるのだが、わ
たしには細かく潰したコーヒー豆が意図されているように感じられる。

ちなみにその類義語tabrakは「ぶつかる・衝突する」を第一義にしており、交通事故など
にはこのタブラッが使われるのが常道だ。交通事故でbertabrakanの語が使われていれば、
ふたつあるいはそれ以上の台数や種類の乗り物が互いに同じような体勢で衝突した印象を
感じさせるが、もしもbertubrukanが使われたなら、大きいものと小さいものが衝突した
結果大きいものが小さいものの上に乗り重なっている印象を受ける。tubrukには折り重な
るという語感も含まれている。閑話休題。


この淹れ方をインドネシア固有の伝統作法だと語るインドネシア人は数多い。しかしほん
とうにそうかどうかはよくわからない。この極めて簡便なコーヒーの淹れ方が長い歴史の
中で、コーヒー粉が食べ物から飲み物にされる場面で最初に起こった方法だったのではな
いかとわたしには思われるのだ。だから、コーヒーが飲用に使われるようになった初期の
ころの淹れ方はこれが標準になっていた可能性をわたしは空想するのである。

この淹れ方がインドネシア人の発明でないのは、アラブ世界のあちこちで同じ淹れ方が使
われている点から推測できる。アラブ半島南部からアラブ世界の隅々にまでコーヒー飲用
が広まったとき、カフワという飲み物はすべからくこの淹れ方で作られていたのではない
だろうか。

もちろんそのバリエーションとして、鍋に全部を入れてから熱するという方法も行われた
ことだろう。大人数分を作る場合はそのほうが明らかに効率が良い。反対に一人分を作る
ときに少量の水と粉末コーヒーだけを鍋で熱することの効率の悪さも普通の頭脳の持ち主
ならすぐに判ったにちがいあるまい。適材適所の使い分けがなされて当然だったようにわ
たしには思われる。[ 続く ]