「ヌサンタラのコーヒー(39)」(2023年12月14日)

現代世界で標準になっている「濾過された液体コーヒー」の様式がいつどこで始められた
のかはよく解らない。仮にそれをトルコからヨーロッパにコーヒー文化が伝わった後でヨ
ーロッパ人が始めたとしよう。するとコーヒーの淹れ方のバリエーションが下流のヨーロ
ッパから上流のアラブに逆流することが起こった。当然アラブ世界のあちこちで淹れ方の
二分化が発生し、それを区別するための術語が使われるようになった。

古くからあったトゥブルッ方式の淹れ方をトルコ人はトルココーヒーという名称で呼んだ。
類似のことが各地で起こり、ギリシャ人もこの淹れ方をギリシャコーヒー、アルメニア人
もアルメニアコーヒーという呼び方で濾過方式と区別した。その習慣がいまだに語法とし
て残っているそうだ。

トルココーヒーという言葉をわれわれはスパイス入りコーヒーという意味に限定して使っ
ているのではないかと思われるのだが、この説ではなんとそこに淹れ方の意味までが絡ま
っていたということになる。


イ_ア人がコピトゥブルッをインドネシアasli(オリジナル)と称する意識の裏側には、
オランダ式(西洋式)でないという政治的な意味合いが隠されているようにわたしには感
じられる。白人支配者への対抗意識から、西洋人トアンたちがヌサンタラに持ち込んだも
のでない、土着で非西洋的なものという点を強調して、それをアスリという言葉で表現し
たように解釈してもおかしくはあるまい。そのようなシンボリックな意味合いがコピトゥ
ブルッに持たされていた時期が確かにあったのだ。

ということは、オランダ人がコーヒー農園を作って大規模生産に励み、またかれら自身も
プリブミ使用人にかしずかれて日々のコーヒーを楽しんでいた時代に、トアンのお屋敷で
はコーヒーが濾過方式で淹れられており、一方ではコーヒー好きプリブミがこの簡便なコ
ピトゥブルッを飲んでいた状況が並列的に存在したありさまを想像することができるでは
ないか。

その推測をもとにしてわれわれは、インドネシアのコーヒー文化の由来が百パーセントオ
ランダ人に帰しているのでなくて、アラブからの別ルートでの、ヨーロッパを経由しない
文化伝播が存在したことを想像するにいたる。アラブ人かペルシャ人かインド・パキスタ
ン人か、その辺りのことははっきりしないにせよ、そしてまた、西洋人がコーヒーを伝え
る前か伝えた後かも明言できないものの、オランダ人とは無関係なところでヌサンタラの
どこかにアラブオリジナル方式のコーヒー飲用文化が古い時代に伝わっていた可能性をこ
の淹れ方の存在が証明していると考えることができるだろう。

「インドネシアのコーヒーの発端はオランダ人が・・・」という話は細密画の一部だけを
取り出して見せているものかもしれない。その画の中にある、ほやけて語られていない部
分を見落とすと、画像の意味を誤解することになりそうだ。


コピトゥブルッがナショナリズムのシンボルにされることが、オランダ東インドの青年た
ちがオランダに留学するようになった時代に起こった。バタヴィアで発行されたムラユ語
新聞Bintang Timoerの1927年10月3日版に掲載されたアブドゥル・リファイ筆の記
事には、オランダのレイデンで開かれたインドネシア協会の会合の様子が記されている。
インドネシア人のオランダ留学の歴史は、拙著「留学史」:
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan81-Ryuugakushi.pdf
をご参照ください。
[ 続く ]