「クンタオ(24)」(2023年12月21日)

さて、親分に敵対する正体不明の犯人から親分を警護する依頼を携えて、クンチュンはジ
ンティの住むアンバラワに向かおうとしている。それが犯人捜査を犯人に頼むことになる
とは露知らないで。

クンチュンは、馬を飼っている隣人から馬を借りた。このプリブミの隣人には何か土産物
を買ってくればそれで済む。チョッジュワンには郵便馬車を使ったことにして、もらった
10フローリンはなるべく経費を減らして自分の懐に残したい。


この時代、オランダ東インドに住む華人系の者は目的が何であれ、自分の居所から離れる
場合に通行パスを作ってそれを目的地の役人に届け出なければならなかった。目的地が2
ヵ所3カ所になれば必然的にパスも2枚3枚と必要になる。もちろん道中で検問を受ける
ことも大いにあり得るし、検問されたときにパスを持っていなければ犯罪者として扱われ
ることになる。この犯罪には罰金10フローリンが科された。

1816年に開始されたこのpassenstelselと呼ばれる通行許可証制度は華人系とアラブ
系のオランダ東インド住民に適用された。この制度が廃止されたのは1916年だ。通行
パスは本人の居住地を管轄する地区役人に申請し、パスが交付されるのは翌日になる。申
請には居所を離れる目的や旅に使う乗り物などを申し出なければならず、そして交付手数
料が0.5フローリンかかった。

本編で地区役人と書いているのはオランダ語のwijkmeesterのことで、華人コミュニティ
では華人系住民のひとりがその職に就いた。役所などは設けられず、役人は自宅で事務手
続きを行ったから、住民は諸手続きのために地区役人の家を訪れるのが普通だった。


クンチュンはチョッジュワンから仕事を言い付けられた日にパスを申請し、翌日パスを手
に入れ、そしてその次の日の早朝にスマランを発って南下し、ウガランの山地に向かった。
大きめのチャピンを被って背に傘を背負い、布袋に着替えなどを詰めて馬の背に置く。そ
の時代の旅行者のいでたちはたいていそんなものだった。チャピンというのはジャワの農
民が被る円錐形の竹編み笠だ。

昼頃にとある村に達して、馬に餌を与えてくれる食事ワルンを探し、そこで1時間ほどゆ
っくりした。そしてまた出発し、アンバラワに着いたのは日もとっぷりと暮れた夜8時ご
ろ。クンタオ師の家を訪れるのは翌日にして、クンチュンは馬の世話も同時にしてくれる
宿を探した。

この時代、田舎町に綺麗で快適な宿屋などは存在しない。ヨーロッパ人であれ、華人であ
れ、プリブミであれ、そんな町を訪れたらみんな友人知己の家に泊まるのが普通だった。
東インド行政府の人間であれば、郵便馬車の駅にある宿泊施設を使うことができた。民間
人はそこに泊まることができない。

泊めてくれる地元民のいない行商人や流浪の人間が、宿屋も行っている飯屋ワルンに泊ま
った。この宿屋兼業の飯屋ワルンは表がバレになっていて何人もがそこで雑魚寝できる。
個室を望む客は奥の竹編み壁の個室に入ることもできた。持っている荷物に万一のことが
起きるのを心配するひとがたいてい個室を使うほうを選択した。しかし行商人たちは滅多
に個室を使わなかった。個室を使えば10セントかかるものの、たいていみんな雑魚寝し
て2セントで済ますのが普通だったのである。クンチュンは個室に泊まった。かれは10
フローリンという大金を隠し持っていたのだから。


翌日、太陽が高くなったころを見計らってクンチュンはプチナンにあるジンティの家を訪
れた。もちろん、お互いに初対面であり、相手を見かけたことさえない。アンバラワの高
名なクンタオ師匠の名前はスマランにも鳴り響いており、自分の頭家がぜひお近づきにな
りたいと望んでいて邸宅にご招待したいと言っているのを伝えに来ました、とクンチュン
が来訪の用向きを告げた。

その頭家がワン・チョッジュワンであることを聞いて内心驚いたがジンティはそんなこと
をおくびにも出さず、高名な分限者のワン先生のお目に止まって光栄だと言い、自分と親
しくなりたいのはどういう意図で言い出されたことか教えてほしい、とクンチュンに尋ね
た。するとクンチュンは身辺警護をお願いしたいのだと言う。[ 続く ]