「ヌサンタラのコーヒー(44)」(2023年12月21日)

スマトラ島はジャワ島に先駆けてインド亜大陸との交通が盛んになった土地だったと思わ
れる。たとえそこが通過点であったとしても、インドからの文明と文化の渡来はジャワ島
よりも一足早かったのではあるまいか。インドネシアで最初に広大な地域に覇権を樹立し
たスリウィジャヤ王国の出現は、やはりインドとの関りの中にあった要因がそれを可能に
したためではないかという気がするのである。

スマトラ島の歴史は最初、マラッカ海峡沿いのスリウィジャヤ王国が発端を飾った。その
時代はマラッカ海峡沿いにできた諸港が?栄を謳歌したようだ。ところがそのうちにイン
ド洋側にできたバルスBarus、シボルガSibolga、ナタルNatal、アイルバギスAir Bangis、
パダンPadangなどの諸港湾都市が商港として栄えるようになって、マラッカ海峡西岸の諸
港を追い抜いてしまった。言うまでもなくそれらの新興諸港で売られたのは有力な国際商
品であるスパイス類であり、諸外国の船がスパイスを求めて、インド洋の荒波にもまれる
小規模な港にやってきたのだ。

インド洋東岸商港の繁栄はオランダ時代が終わるまで続き、そして大戦のあとインド洋を
通る通商ルートがマラッカ海峡に集中するようになってスマトラ島西岸諸港は忘れ去られ
る運命を余儀なくされた。オランダ東インド政庁がスマトラ島西岸部をいかに重要視して
いたかということは、1863年に商工会議所をパダンに開いた点から推測することがで
きるだろう。政庁が開いた商工会議所はバタヴィア・スマラン・スラバヤ・マカッサルに
あっただけだったのだから。

オランダ時代が終わるまで何百年間も諸外国の船が集散し、時にはフランス人の海賊船が
荒らしにやってきたこともあるその一帯はいまや、「昔の姿いまいずこ」という風情にな
っている。


コーヒーの歴史という切り口でスマトラ島の位置付けを考えてみるなら、VOCがジャワ
島にコーヒー栽培を進行させていたころ、アラブからインド・ペルシャに伝わったコーヒ
ー飲用の習慣をインド人やペルシャ人が既にスマトラ島に持ってきていた可能性は大いに
ありうる気がするのだが、実際にはコーヒー豆のエキスを使った液体飲料でなくてコーヒ
ーの葉を煎じて飲む茶葉スタイルがスマトラ島のいくつかの場所で伝統と化していたこと
を発見して、われわれは大いに戸惑ってしまうことになる。

それはそれとして、コーヒー葉を煎じた飲料の名称にカワという言葉が使われている事実
にアラブ語カフワとの関連性を感じるのは、わたしだけではあるまい。


スマトラ島に産するコーヒーの有名どころはマンダイリンMandailing、リントンLintong、
ガヨGayoが三傑をなしているとはいえ、他にもレジャンルボンRejang Lebong、ジャンカ
ッJangkat、シディカランSidikalang、シピロッSipirok、タルトゥンTarutungなどがあっ
て、それらの産品にも根強いファンがいる。

それらが国際的に名の知られたものになったのは、オランダ人の生産奨励と商業活動があ
ってこそのものだった。たとえどこかの土地にコーヒーの木が散在していて、地元民がそ
れを美味い液体飲料にして飲んでいたとしても、オランダ人の商業主義の流れに載せられ
なければ国際社会がその存在を知る方法はなかったはずだ。


スマトラ島でオランダ人が最初にコーヒー農園事業を始めたのは北スマトラのリントンだ
そうで、その歴史は1750年までさかのぼる。面白いことに、上述のコーヒー産地のう
ちのシディカラン、リントン、タルトゥン、シピロッ、マンダイリンは北スマトラ州に集
中していて、オランダ人がいかに北スマトラという土地を深く利用したかということをそ
れが示しているように思われる。

ムラユ、ミナンカバウ、アチェからのイスラム化の波に直面した北スマトラの地場支配者
がオランダ人を防波堤にした結果がそれだったのかもしれない。そして少なくともイスラ
ム化の波を防ぐことはできたものの、地場の伝統宗教の隙間にキリスト教が浸透して行く
のをとどめる術はなかった。

ちなみにマンダイリンでのコーヒー栽培開始はファン・デン・ボシュの栽培制度渦中の1
835年であり、別名Meranginとも呼ばれているジャンカッは1901年、ガヨはもっと
遅れて1918年となっている。[ 続く ]