「ヌサンタラのコーヒー(45)」(2023年12月22日)

それまで独立王国だったアチェスルタン国を征服するためにオランダは1873年にアチ
ェ戦争を起こした。王都はオランダ軍に占領されたものの、対オランダ抗争は全土に広が
り、アチェ側の抵抗が完全に終息して平和が戻るまでに31年の歳月を要した。

この戦争が峠を越えて終焉の方向に向かい始めた時期、抵抗ゲリラ戦指揮官たちを追い求
めていたオランダ植民地軍の情報の網に、アチェ側の大物のひとりテウク・ウマルの消息
が引っかかった。抵抗戦のメインリーダーであるテウク・ウマルが軍勢を率いてムラボに
帰って来るという情報だ。植民地軍を率いていたファン・ハーツ将軍はその機会を逃さな
かった。ムラボの郊外に大規模な部隊を配置して、ムラボに入って来るテウク・ウマル軍
を包囲する作戦をかれは立てた。

1899年2月11日の夜明け前、ムラボに向かって進軍してきたテウク・ウマル軍の行
く手をオランダ軍がさえぎった。退路も抑えられてしまった軍勢は弾雨の中を前進する以
外になす術がなかった。アチェ人に降伏という言葉はないのだ。テウク・ウマルは銃弾を
浴びて45歳の生涯を閉じた。テウク・ウマルの名は国家英雄として全国諸都市の大通り
にその名を残している。

戦死する前日、テウク・ウマルはムラボに向けて進発する前にこんな言葉を述べたそうだ。
Beungoh singoh geutanyoe jep kupi di Keude Meulaboh atawa ulon akan syahid.
明朝、われわれはムラボのクダイでコーヒーを飲んでいるだろう。もしそうならなければ、
わたしは殉教しているだろう。


コーヒーを飲む習慣は世界中のどの土地へ行こうが、きっと普通に見られるものになって
いるのではないだろうか。だがアチェ人のコーヒーに関する振舞いはきっと誰もが、普通
ではないと思うのではあるまいか。なにしろ、日の出前のイスラム礼拝を終えた大勢のひ
とが家から出てクダイコピに集まって来るのだから。

朝まだうす暗いうちからアチェにたくさんあるクダイコピは賑わいはじめて夜中まで客足
の絶えることがない。アチェ人にとってのコーヒーはかれらの生活規範のひとつになって
いるように見える。アチェ人はしばしば「コーヒーを飲まなきゃ元気が出ない」と言う。

ところが飲む場所までもが暗黙の中で合意されている。クダイコピ、あるいはワルンコピ、
で大勢でわいわい言いながら飲むのが「コーヒーを飲む」という言葉の意味しているとこ
ろなのだ。

ワルンコピはガソリンスタンドのようなものだ。自動車はガソリンを入れなきゃ動かない。
ガソリンスタンドでガソリンを入れるように、アチェ人が働くためにはワルンコピでコー
ヒーを飲まなきゃならないのだ。そう説明する声もある。


たいていのアチェ人が、家で飲むコーヒーとワルンで飲むコーヒーは美味しさが違うと言
う。同じ種類の豆を使っていても、豆の処理方法が違うのか、淹れ方が違うのか、何かが
加えられているのか、それとも単に雰囲気や環境の違いが心理に影響を及ぼしているだけ
なのか。アチェは大麻で有名な土地だ。ワルンでは大麻を混ぜているから美味いのだと語
るひともいる。コーヒーに大麻を混ぜるのは昔からの普通の慣習だったという説もあるの
だ。この話はもっと後で触れることにする。ともかく、ワルンで飲むほうが美味いという
印象が大勢のアチェ人を一日中ワルンコピに集めているのである。

本項ではワルンコピとクダイコピを同義語として使っている。kedaiはタミール語源のム
ラユ語であり、warungはジャワ語だ。スマトラ島北部地域では元々クダイの語が使われて
いたのだが、メダンでジャワ人の人口増が起こり、ジャワ文化がメダンの中に流入したこ
とでワルンの語を使用するメダン住民が増えた。その傾向がどうやらアチェに流れ込んだ
ように思われる。だから古い時代の文書にはたいていクダイコピの語が使われているもの
の、現代アチェではどうもワルンコピの語の方が優勢になっているように見える。[ 続く ]