「ヌサンタラのコーヒー(46)」(2023年12月27日)

アチェの州都バンダアチェの街の話を物語ろうとするなら、街中の至るところに店開きし
ているワルンコピに言及しなければ何かが欠けたお話になる。さまざまな店舗が5軒並べ
ば、その中の一軒は必ずワルンコピなのだそうだ。バンダアチェ市内のチュッ通りはもっ
とエクストリーム。長さおよそ1キロのこの通りの界隈には44軒ほどのワルンコピが散
在し、朝から夜中まで客の途切れる時間帯がなく、常にどの店も賑わっている。

ここでの賑わいというのは視覚的な印象を述べているのでなくて、音声の賑わいもそこに
加味されている。どの店でも来店客がみんなおしゃべりをしている。個人的な話・ビジネ
スの話・キャンパスの話・芸術や文化の話・何かの商談で行われるタワルムナワル・社会
情勢から政治の話。おしゃべりの内容は千差万別だが、コーヒーのおかげでみんなのおし
ゃべりに活力が添えられるのだろう。


アチェのワルンコピは社会交際のための公共空間を作り出した。そこではプライベートな
話が連れ立ったグループの中でなされるだけでなく、社会的な話題も話され、それに関す
る意見交換が行われることも頻繁だ。友達や知り合いであるかないかがその討論に参加す
るかしないかの行動基準にされていない。知らないひとびとが行っている議論に別の客が
単身で入って行っても拒まれることはめったに起こらないのがインドネシアの特徴だろう
とわたしは思っている。そしてそれを「開かれた社会」の一特徴ではないかと考えている。
インドネシア人が人間好きと形容されている根拠の中にこの現象が含まれている。

たとえ討論に参加しなくとも、テーブルの上で行われている談論討議に聞き耳を立ててい
るだけでも情報は得られる。それはあたかもテレビの対談番組を見ているようなものと言
えないだろうか。

クダイコピの社会的な機能についてアチェ人の人類学教授は、フォーマルなルートでは解
決の得られない問題の答えがクダイコピで得られると指摘している。アチェでは行政高官
や公務員、会社の社長や大学教授、さらにはウラマたちもが物おじせずにクダイコピにや
ってくる。かれら社会的上流階層にややこしい話をぶつけなければならなくなったとき、
それをかれらの職場に伺って持ちだすよりも、クダイコピにいるかれらを見つけてぶつけ
るほうが円滑な進展につながることが多いそうだ。職場ではノーと言って終わらせてしま
うような問題であっても、クダイコピでは親身になって「それはダメだがこんな方法で試
してみてはどうか」といったアドバイスが得られやすいということなのだろう。

ジャワのワルンコピではそんなことがまず起こらない。社会的上流階層は一般庶民が集ま
るワルンコピにやって来ないのだ。行政高官から上級公務員までが、そんなことをすれば
自分の権威が失墜してしまうと思っている。スマトラ島北部のクダイコピが示すデモクラ
シー色を誇る郷土人は数多い。


ひとびとはその時その時でホットな国内外の話題をクダイコピで論じ合う。あまり報道さ
れていない内容の話が情報通の口から聞けたなら、クダイコピはテレビラジオよりも大き
な意味をひとびとにもたらすだろう。地方行政公職者の人事異動やスキャンダルの情報も、
報道メディアで流れる前にクダイコピで先に耳にすることができるそうだ。

地元学生運動リーダーのひとりは、仲間とワルンコピに行ったらまず地元の新聞を読む、
と語る。そして面白そうなテーマを取り上げて、それについての意見を語り合う。さまざ
まな角度からその報道記事が咀嚼され、そして理性が受け入れることのできない内容だと
いう結論が最終的に出されることも再三起こっているらしい。

弱小建築業者のひとりは、契約が手に入ったら労働力探しをクダイコピで行っている。そ
のためには何軒かをはしごするほうが効果的だ。かれはクダイコピへ行って飲食し、まわ
りの客と世間話する中にその求人のことを盛り込む。すると翌日には仕事を欲しい人間が
確実にやって来るとかれは語っている。[ 続く ]