「ヌサンタラのコーヒー(51)」(2024年01月08日)

ふたつの文明文化が交流するとき、互いが持っている優れたものの交換が起こるのは普通
のことだった。新たに知った異文化が持っている良き物をライフスタイルの中に摂りこむ
のである。アチェの古い建物の中にオットマン様式のものがあることを専門家が指摘して
いる。コーヒーについての想像を逞しくするなら、トプカピ宮殿で皇帝の一族が愉しんで
いるカッヴェがアチェの使節に振る舞われたかもしれないし、コンスタンチノープルで流
行しているカッヴェハネをオットマン派遣軍がアチェの民衆に教えたかもしれない。

トルコではコーヒー栽培が行われなかった。世界51コーヒー生産国の中にトルコの名前
は出て来ないのだ。トルコはコーヒー消費国であり、生産国にならなかったようだ。それ
でも、トルコがヨーロッパに向かうコーヒー文化の源泉になったのは、大帝国というヘゲ
モニーのおかげだったにちがいあるまい。

アラブ世界におけるその時代のコーヒー文化を支えたコーヒー豆は半島南部のイエーメン
のモカ一帯に作られたコーヒー農園の産物であり、支配者のオットマン帝国がそれをコン
スタンチノープルに送らせてコーヒーの通商を独占した。


アチェ人がカッヴェを気に入ってライフスタイルの中に摂りこもうとした場合、コーヒー
豆の供給をどうするかという問題が起こる。コンスタンチノープルの真似をするわけには
いかないだろう。自家生産が最善の解決策になる。オットマンの皇帝がそれを許したかど
うかは良く分らない。アチェでそれを作らせてコンスタンチノープルに納入させればトル
コ側のメリットになることは皇帝も考えたはずだ。

反対にアチェ側がコンスタンチノープルからの輸入に頼ってしまった場合、アチェのワル
ンコピの隆盛を支えた供給をどう考えたらよいのだろうか?それともアチェのワルンコピ
の隆盛はオランダ人がガヨ地方にコーヒー農園を作らせたあとで始まったものなのだろう
か?ガヨ地方というのはアチェ州の中央山岳部にあって、位置的には東部の方に近い。

また別に、多くのイ_ア人文化研究者がアチェのコーヒー文化はトルコからの直伝である
という主張を述べている点も見逃せない。かれらの説明の中には、アチェ人がワルンコピ
で行っている長時間座りこんでおしゃべりする習慣とトルコ人がカッヴェハネで行ってい
るものはまるで双子の兄弟だという意見や、モスクや礼拝所での礼拝のあと、ひとびとが
連れ立ってワルンコピへ繰り込む行為までアチェとトルコはまったく同じだというもの、
アチェの古いクダイコピで使われていたテーブルは脚の低いもので椅子とほぼ同じ高さに
なっており、そのスタイルはトルコの古い写真にも見ることができる、といった傍証が披
露されている。加えてさらに強い根拠として、コーヒーの淹れ方が同じである点が指摘さ
れている。粉末コーヒーと水を一緒に容器に入れて熱し、できた抽出液を濾してカップに
注ぐのである。

カッヴェのおかげでスーフィズムがトルコで流行した。夜間の勤行がカッヴェの助けで行
いやすくなったためだ。そのセットがアチェに流入したという説を語る学者もいる。イン
ドネシアのイスラム史の中で、スーフィズムがアチェで有力な地位を築いたことは大勢が
認めている。ハムザ・ファンスリやシャムスディン・アルスマトラニたちの名前はイスラ
ム史の金字塔に彫り込まれているのだ。

「まだ幼かった1970年代に、わたしは夜によく外出しました。クダイコピへ行くんで
す。そこではいろんな物語が語られていました。大人たちが集まってコーヒーを飲み軽食
を食べ、それが一段落すると誰かがイスラム関連の物語を読むんですよ。その中にスーフ
ィズムの教えも混じっていました。」アラニリ国立イスラム教大学のハスビ教授は幼い頃
の思い出をそう語った。[ 続く ]