「ヌサンタラのコーヒー(52)」(2024年01月09日)

アチェ州の中央山岳部にガヨの地がある。海抜1千から1千7百メートルというこのガヨ
高原でアチェスルタン国を征服したオランダがコーヒー栽培を開始した。ガヨ高原では西
暦7〜8世紀にコショウ栽培が始まり、もっと後になって茶の栽培も行われていたが、ア
チェの統治を開始したオランダ東インド政庁アチェ軍事民政都督府がそこにコーヒーを栽
培させることを決めた。

1918年にタケゴンに近いブランゲレBelang Geleの100Haの土地が政策農園にされ、
そこでアラビカ種のコーヒーが栽培されたのがガヨコーヒーの事始めだ。現在その土地は
中部アチェ県ブブサンBebesen郡の一画になっている。

1920年になって、オランダコーヒー農園の周囲にガヨ人の部落ができはじめた。ガヨ
人部落のひとびとはオランダコーヒー農園を見倣って、自分たちも土地を開墾してコーヒ
ーの木を植えるようになった。オランダ資本とは無関係に民衆農園が作られ始めたのであ
る。1930年にはオランダコーヒー農園の周りにガヨ人の居住地区と民衆農園が広がっ
ていた。

ブランゲレ農園から近いウィーポラッWih Porak村にオランダ時代に作られたと思われる
コーヒー工場の廃墟がある。豆の天日干しに使われたと見られる構造物の跡や水車の跡な
どがあり、オランダコーヒー農園で収穫されたコーヒー豆が加工されてから海岸部に送り
出されていたことを推測させるものだ。

今では8万1千Haの土地がガヨコーヒーの栽培に使われていて、インドネシアで最大のコ
ーヒー産地になっている。そのうちの4万2千Haがブヌルムリア県にあり、3万9千Haが
中部アチェ県にある。ガヨ産アラビカコーヒーは年産7.5万トンにのぼり、アジアで最
大量を誇っている。輸出されるのはそのうちの65%だが、未加工のまま船積みされてい
る。一方、インドネシア国内のアラビカ種総消費量の4割がガヨ産で占められている。


ガヨはアラビカというのが条件反射と化したように見えるが、ガヨもロブスタを産してい
る。ところがアチェでロブスタを求めるひとは、ガヨのロブスタに見向きもしないでラム
ノを愛する。ガヨのコーヒー栽培が始まる前からラムノのコーヒーは高い人気があったと
いう話もある。

ラムノというのはバンダアチェから西岸沿いに50キロあまり南下した位置にあるアチェ
ジャヤ県ジャヤ郡の村であり、青い目のアチェ人が住んでいる地方として有名だ。この地
方に産するコーヒー豆はコーヒー農園でなくて、農民が米や穀物栽培と並行して行ってい
るコーヒー畑で収穫されている

ラムノでは海抜100メートルに満たない標高の土地でロブスタ種の木が栽培され、木は
成長するがままに放置される。そして高く育った木のてっぺんをロープでしばって下にた
わませるのだそうだ。ラムノの農民は赤く完熟したものだけを収穫する。


バンダアチェのウレーカレンにあるコーヒー焙煎業者の多くがラムノ産ロブスタを好んで
いるのは、ワルンコピのオーナーたちがそれを好んでいるからだという因果関係は上で述
べた。ウレーカレンにどうして焙煎所が集まっているのだろうか。

ウレーカレンがコーヒー加工センターになったのは1960年代だったそうだ。ワルンコ
ピソロンが開店したのが1958年で、ハジナワウィの父親が開業した。どうやらバンダ
アチェでクダイコピブームが起こり、その需要を刈り取ろうとして焙煎事業者が増えて行
ったということかもしれない。

今では、ウレーカレン製コーヒーはスマトラからマラヤ半島〜シンガポールにかけて名の
知られた産品になっている。アチェのコーヒーはガヨ産とウレーカレン産があると書いて
いる記事があるのだが、ガヨは農産物としてのコーヒーの産地であり、ウレーカレンは加
工品の産地であるという理解を持つべきではないだろうか。その並列表現では同じ言葉が
使われているものの、それぞれが意味している概念は異なっているように思われる。同じ
概念でとらえてしまうと混乱が起こりそうだ。[ 続く ]