「ヌサンタラのコーヒー(53)」(2024年01月10日)

ガヨコーヒーに関する一般的な情報は上で述べたような内容になっている。ところが、地
元研究者がまとめた研究論文が2022年に書物になって出版された。「ガヨコーヒー・
歴史的社会学的研究」と題するこの書物には、先に述べた一般的な情報とは異なる内容が
種々語られている。われわれはいったい何が本当なのかわからなくなって、惑乱してしま
うことになりかねない。

歴史の中のできごとはそれに関わった人間の数だけ真実があるという鉄則をよりどころに
して、われわれはこの錯綜する情報に向き合わなければならないだろう。


1889年にオランダ東インド政庁プリブミ統治顧問としてバタヴィアに到着したスノウ
ク・フルフロニェ教授は、1905年に職務を果たしてオランダに戻るまでの間、アチェ
戦争の早期終結をはかるための方法を模索するため1891年7月8日から1892年5
月23日までアチェに滞在してさまざまな情報を集めた。

それを分析して東インド総督に対し、アチェ統治方針についての意見書を提出したほか、
アチェに関するいくつかのテーマに関する論文をも発表した。その中にガヨのコーヒーに
ついての話も書かれているそうだ。アチェの軍事民政都督府がアチェにコーヒー農園を開
くずっと前に、教授はガヨにコーヒーの木があることを書き遺しているのである。

それとは別に類似の証言が他にもあり、アチェがオランダに征服される前の19世紀末期
に、東スマトラを統治していたオランダ行政府がガヨ高原にコーヒー栽培のアプローチを
行ったことが語られている。東スマトラという地域名称は現在の北スマトラ州の東海岸部
を指し、デリで始まった商業用作物農園開発の対象地域として、今で言う経済特区のよう
な扱いがなされた。その中心地がメダンになり、経済特区のセンターには全国各地から人
間が集まって来てメダンが人種のるつぼになったのである。


フルフロニェ教授の論文にはこんな内容が書かれているそうだ。
ガヨの地ではあちこちにコーヒーの木がある。ところが、ガヨ人の誰に尋ねても、コーヒ
ーの木を植えたり誰かが植えるのを見たと言う者がひとりもおらず、どこからもたらされ
ていつごろ植えられたのかはまったく分からない。ガヨ人は昔からその木を野生の自然木
と見なしていた。kahwaあるいはsengkawaと呼ばれているその木は幹や枝を切って畑の柵
に使うくらいが関の山であり、その木に生った実は赤く熟れても放置されて野鳥の餌にな
っていた。あちこちにコーヒーの木が雑然と生えているのは多分野鳥のしわざだったので
はないだろうか。

ただ、ガヨ人は昔からその木の葉が飲用に使えることを知っていた。葉を焙って茶のよう
にして飲むと、身体をリフレッシュさせる効用がある。その木の実を加工してコーヒーと
いう飲み物にすることが世界中で行われており、そしてそのための素材としての木の実が
高い経済性を持っていることをガヨ人は比較的最近知った。


コーヒーの葉の飲み方についてガヨ文化専門家は、葉を火で焙ってから熱湯を注ぎ、そこ
にアレンヤシの砂糖を混ぜて作ると説明している。それに使われてきたのはロブスタ種だ
った。地元民は茶にするコーヒー葉を産する木をKupi Kolak Ulungと呼んでいる。クピと
いうアチェ語はムラユ語のコピに由来しているように感じられるのだが、木や葉や実の名
称がカフワからクピに変化したのはいつごろだったのだろうか?

そのガヨ文化専門家によれば、ガヨ高地にはオランダ人が農園を作る前からコーヒーの木
があったそうだ。ガヨ高地のブブサン郡ダリン村の住民のひとりがメッカ巡礼を果たして
帰郷したとき、コーヒーの苗木を持ち帰った。ひとびとはかれの名をAman Kawaと呼んだ。
アマンカワが植えたコーヒーの木が増えてから、ブランの住民がその木を周辺の諸地域に
広めた結果、ひとびとは家や畑の生垣にアマンカワの木を植えるようになった。アマンカ
ワが持ち帰ったアラブのコーヒーの木を地域一円に広めたブランの住民はAman Kupiとい
う名で呼ばれた。[ 続く ]